「ねえ、そこって僕が入っても良いの?」
「うん。全然構わない。30分もかかんないと思うから、
ちこっとだけ待っててね?」
ナオさんが僕の顔をのぞき込む。
僕は内心不安に思いながらも、小さく頷いた。木曜日。
僕らは連れだってナオさんの大学に来ていた。
こないだの火曜日、ナオさんが居なくて退屈だった、
と話したら、ナオさんが大学に連れてきてくれたのだ。
ナオさんの大学に来るのは二度目だけど(初デートの
時に一度遊びに来てる)、ナオさんのゼミ室とやらに
行くのは初めてで、僕はちょっと緊張していた。
ナオさんが教授先生に論文を見て貰う間、僕は一人で
ゼミ室で待っていなくちゃならない。
ナオさんとゼミ室への階段を昇りながら、僕はぎゅっと
ナオさんの手を握り締めた。
「こんちわ〜」
僕の手を握ったまま、ナオさんがゼミ室のドアを開ける。
「やだ!ナオ〜!久しぶり〜!」
途端に部屋の奥から、悲鳴のような声と共に、女の人が
飛び出してきて、ナオさんに飛びついた。
ナオさんの後ろに隠れるようにしていた僕は、びっくりし
て思わず後ずさる。
「うわっ!なんだよ先輩!離れろ〜!」
ナオさんは僕の手を握ったまま、笑って女の人の肩を
軽く押した。
「久しぶりに会ったのにつめたーい!」
先輩と呼ばれたその人は、ナオさんの顔を見つめて
小さく頬を膨らませる。
僕は、びっくりして後ずさったまま、ナオさんとその人を
交互に見つめた。
「あれっ?それ、誰?」
ナオさんと手を繋いだままの僕と、目と目が合って、
女の人がびっくりしたように声をあげる。
僕は慌てて頭を下げた。
「ナオの弟?」
「違う。僕は一人っ子やも」
ナオさんは首を振って否定しながら、僕を部屋の中へと
促した。
「まこちゃん。ここ座って待っててね?」
ナオさんは手を離して、僕をパイプ椅子に座らせると、
こう云って顔をのぞき込む。
僕はナオさんと一瞬たりとも離れたくない気分だった
けど、しかたなしに頷いた。
「ええとね、あの人がキョウコさんでね、あっちの人が
ゆうたん。二人とも僕の先輩やよ」
ナオさんが、部屋に居た人を紹介してくれる。
キョウコさんは、真っ赤なスカートと真っ白なブラウスという
いでたちで、高いヒールのサンダルのせいもあるけど、
僕より背が高くて、美人なおねえさんだ。
肩の辺りまである薄茶の巻き髪を、鬱陶しげに掻き上げる
指先には、綺麗にマニキュアが施されている。
キョウコさんは、ナオさんに紹介されると、僕ににっこり笑い
かけた。
なんかすごく緊張する・・・。
普段、こんなおねえさんと接する機会が皆無なせいで、僕は
どんな態度を取ったら良いのか分からずに、もう一度小さく
頭を下げた。
ゆうたん、という人は奥でパソコンに向かっていて、後ろ姿
しか見えなかったけど、ナオさんが紹介すると、ちらりと
こちらを振り返って、小さく手を振ってくれた。
「この子はまこちゃん。もうすぐ高校二年生」
ナオさんはここまで云うと、時計を見上げて慌てたように
鞄を掴んだ。
「んじゃ、僕ちょっと行ってくる!まこちゃんをよろしく〜。
あ、まこちゃんいじめんなよ!先輩!」
ナオさんはまくし立てるように云うと、僕の頭に手を置いた。
「ちょっと行ってくるから、イイコで待っててね?」
ナオさんは大きな手で僕の頭を一撫ですると、足早に部屋を
出ていった。
知らない人たちの中に一人残されて、どちらかというと
人見知りな僕はちょっと不安になる。
「ねえ、何か飲む?」
なんとなく居心地が悪そうにしている僕に気を遣ってか、
女の人・・・キョウコさんという名前の・・が話しかけてくれた。
「え、あ、はい」
急に話しかけられて、僕は慌てて頷く。
キョウコさんは少し笑うと部屋の隅にある冷蔵庫をのぞいて、
缶のジンジャーエールを持ってきてくれた。
あ、ナオさんの好きな飲み物だ。
キョウコさんの手の中の見慣れた緑色の缶を見て思う。
「これ、ナオ用だから、遠慮せずどうぞ」
キョウコさんはにっこり笑うと、僕に缶を手渡した。
「ありがとう」
よく冷えた缶を受け取る。
「ねえ、ええとまことくん、だっけ?」
僕がプルトップを開けていると、キョウコさんは椅子を引きずって
きて僕の隣に座りながら、首をかしげて聞いてきた。
「あ、まこ、です。とは無くて」
言い慣れた台詞を口にする。真とかいてまこ、というのは珍しいの
か知らないけど、よくまことと間違われる。
「あ、そうなんだ。ごめんね。ね、ちょっと聞きたい事が
あるんだけど、いい?」
キョウコさんみたいな綺麗な女の人に顔をのぞき込まれると、
どきどきする。
僕は少し緊張しながら頷いた。
聞きたい事っていったいなんだろう?
「ナオとすごく仲良いみたいだから、まこくんなら知ってるかなあと
思って」
キョウコさんは目だけでふわりと笑う。
「ナオの彼女ってどんな子か、知ってる?」
さらりと何気なく聞かれて、僕は思わずきょとんとした。
「かのじょ?」
無意識のうちに聞き返す。
「そう。ナオってば、口が堅くって、全然教えてくれないのよ!」
キョウコさんは早口で言って、息を吐きながら腕を組んだ。
「んな事聞いてどうすんだよ。まだナオの事狙ってんの?」
パソコンに向かったままのゆうたんさんが、からかうように
振り返って云う。
僕は今更ながら焦ってきて、ぎゅっと手を握りしめた。
僕は…、ナオさんのカノジョにはなりえないけど(だって男だし)、
でも、恋人ではあるわけで(そう。ナオさんは僕の恋人だ)、
この場合なんて答えて良いのか分からないけど、なにやら
このキョウコさんはナオさんの事を狙っているらしいし…
だんだん混乱して、訳が分からなくなってきた。
「そうよ。だってナオの事好きなんだもん」
うだうだ考えていた僕は、ぴくりと顔をあげた。
今、確かにキョウコさんはナオさんのことが、好きだって…
ぎゅうっと心臓が掴みあげられた気がした。
心臓がばくばく鳴っている。
そんな僕を置き去りにして、会話はどんどん進んでいく。
「ナオなんかやめて俺にしなよ」
「イヤよ〜!私は自分より頭の良い男が良いの!ナオなら
私より頭良いし、顔はフツウに好みだし、基本的には優しいし、
理想だわ〜」
キョウコさんは半ばうっとりと言い、それを聞いて、
僕はしょんぼり項垂れた。
そうなんだ。言われてみれば、ナオさんがもてない訳がない。
頭が良くて、背も高くて、優しいし、気さくだし、おしゃべり
上手で明るいし…。
「どうかした?」
じっと黙り込んでしまった僕に、キョウコさんは訝しげに
声を掛けた。
「なんでも、無いです」
無理矢理笑顔を作って見せる。
ホントは心細くて不安で、泣きそうな気分だったけど、
知らない人の前で泣くわけにもいかなくて、僕はぐっと我慢した。
ナオさんに、早く会いたい。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、会話はどんどん進んで
行く。
「たしか年下だっつってなかった?高校生だって聞いた気がする」
「そーよ。先輩と違って料理上手ですげえ可愛いってのろけられ
た事あるもの!」
キョウコさんは憤然と云って、小さく頬を膨らませた。
・・・話を聞いている限り、たぶん、僕の事だ。
僕はなんだか居たたまれなくて、飲みかけの缶を机の上に置くと、
椅子から立ち上がった。
「あの、トイレに・・・」
「トイレ?出てまっすぐ行くと、右手にあるから」
「ありがとう」
僕は小さな声で呟くと、逃げるように部屋を出た。
ゼミ室を出て薄暗い廊下を歩きながら、僕はすっかり元気を
無くしていた。
とぼとぼと肩を落として、トイレを通り過ぎ、階段まで行って、
階段の半ばに腰掛ける。
ひんやりとした階段は、しんと静まり返っていて、僕の淋しさを
一層かき立てる。
僕は顔を両手で覆った。
ナオさんが僕が好きなのは知ってる。
僕を本当に可愛がってくれて、大事にしてくれて、愛してくれてる。
その事は、ようく分かっている筈なのに、どうしてこんなに不安
なんだろう?
僕はぎゅうっと目を瞑った。
ダメだ。
ホントに泣きそう・・・・・
こう思った時、廊下からナオさんの声がした。
「ま〜こ〜ちゃーん!」
小さな子どもみたいに、僕の名前を呼ぶ、懐かしい声。
僕はゆっくり立ち上がった。
「まーこーちゃーん。どこ〜?・・・って、みっけ!」
のんびりした声がだんだん近づいてきて、目の前にナオさんが
現れた。
手に分厚い論文の束を持ったまま、にっこりと僕を見て笑う。
僕は、階段の真ん中につったったまま、ナオさんを見つめた。
唇が、震えるのが分かる。
「どうしたん?」
ナオさんに顔をのぞき込まれて、僕はとうとう泣いてしまった。
「ナオさぁあん」
ナオさんの名前を呼びながら、わあわあ声をあげて泣く僕に、
ナオさんはびっくりして駆け寄った。
「どしたん?どこか痛いの?」
おろおろと僕の肩を抱く、ナオさんの声は本当にうろたえている。
僕は手を伸ばしてナオさんの胸にしがみついた。
「まこちゃん、一体どうしちゃったの?」
ナオさんの優しい手が、困惑しきった声と共に、僕の髪をそっと
撫でた。
ほんとに、どうしちゃったんだろ?
暖かな胸に顔を埋めて、ぐずぐず泣きながら自分でも思う。
でも、涙は止められなくて、僕は長い間ナオさんの胸の中で
声をあげて泣いていた。
ナオさんは、僕を胸に抱いたまま、そっと髪をなで続ける。
一頻り泣いた後、僕はようやく顔を上げた。
ナオさんのチェックのシャツは、僕の涙(と鼻水・・)に濡れて、
びしゃびしゃだった。
「ごめん・・なさ、い」
しゃくりあげながら、鼻声で謝ると、ナオさんは僕をぎゅっと
抱きしめて、それから僕と目線を合わせた。
「一体、どうしたの?」
いつも明るいナオさんの目が、心配そうに曇っている。
僕はしゃくりあげながら俯いた。
何ていったらいいんだろう。
「あ、のね。キョウコさんが・・・」
「何!?先輩に苛められたのか!?」
ナオさんが声を荒げて、僕の顔をじっと見つめる。
僕は慌てて首を振った。
「キョウコさんが、ね、ナオさんの事、好きだ・・・・って」
蚊の泣くような声で、云う。
ナオさんはきょとんとした顔で、僕を見つめた。
「それ、聞いたら、なんだか・・・すごく不安になって・・淋しくて・・
ナオさんの顔見たら、急に泣きたくなっちゃった・・・」
云えば云うほど、あんなに泣くほどの理由には思えなくて、僕は
今更ながら恥ずかしくなって、俯いたまま階段を見ていた。
「まこ」
名前を呼ばれて反射的に顔を上げる。
「大丈夫。僕はまこのやから」
ナオさんは涙に濡れた僕の頬を、そっと両手で拭うと、
小さく囁いて僕の身体を抱き上げた。
「行くぞ!」
急に抱き上げられて、訳が分からないまま、僕はナオさんの胸に
しがみついた。
行き先は・・・・ゼミ室。
ばあん!とナオさんがドアを蹴り開ける。
ナオさんはそっと僕を床に下ろすと、いきなり僕の唇を唇で塞いで
抱きしめた。
「・・・・・!!!????」
目を瞑ってしまったせいで、確認は出来ないけど、部屋の中には
キョウコさんと、ゆうたんという人が居る筈で・・・。
身体を強張らせる僕の唇を、いとも簡単に舌先で割って、ナオさん
の舌が滑り込む。
濡れた音を立てて舌が絡むのに、僕はもう、何がどうでもよくなって、
手を伸ばして、ナオさんの首にしがみついた。
自分からも舌を絡めて、ナオさんの舌を吸い上げる。
僕らは、ゼミ室の真ん中で白昼堂々、長々とキスを交わした。
「はあ・・・」
ナオさんの唇が、僕の唇を甘く吸い上げてから、離れていく。
僕は小さく吐息を洩らして、潤んだ目でナオさんの顔を見上げた。
ちゅっ、と音を立てて、頬にキスが落とされる。
「こういうことだから!以後よろしく〜!」
ナオさんは僕を抱き上げながら、こう言い残して、ゼミ室を颯爽と
出ていった。
抱き上げられながら、ちらりと目の端に部屋の様子が映る。
キョウコさんも、ゆうたんも、半ば口を開けたまま、呆然と僕らを
見ていた。
キョウコさんの事を思うと、ちくりと心が痛むけど・・・
廊下を駆けるナオさんの胸の中で揺れながら、僕は濡れたシャツに
頬を寄せた。
・・・・・・・でも、ナオさんは僕のだもん!
心の中で呟いて、ナオさんの顔をじっと見上げる。
ナオさんは、にやりと笑って僕の額に口づけた。
「これで、まこちゃんとの中は、ゼミ中にバレちったね」
ナオさんは、悪戯を成功させた子どもみたいに嬉しそうに笑う。
「バレても良いの?」
「構うもんか」
ナオさんは明るく笑う。
「ほら、もうすぐ桜が咲くよ」
ナオさんの指の先で、桜が綻びかけている。
「ホントだ!」
声をあげた僕の髪を、ナオさんの手が優しく撫でた。
「まこちゃん、やっと笑ったねえ」
心底安心したような、ナオさんの声。
僕は、腕を伸ばしてナオさんの首に抱きつくと、そっと耳に囁いた。
「僕も、ナオさんのだからね」
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