この場所に連れてこられてから、どれくらい経ったのだろう。今、昼なのか夜なのか、それすらもユウには分からなかった。
 もう何日も過ぎたかのようにも思えるが、実際はまだ、一日にもなっていないのかもしれない。
 苦痛に満ちた時間は、一秒一秒すら、ひどく長く感じるから。
「み、ず…」
 掠れた声が、ユウの唇から漏れる。
 今は真冬。
 それを忘れさせるほど、このロッジの中は暖かだ。寒々しく見える板張りの床も、ちゃんと暖房が施されていて、裸の身体が寒さを覚えることはない。
 ただ、冬の常として空気はひどく乾燥していて、ユウの身体は水分を求めていた。
 無意識に口にした言葉に、髪を掴まれる。
「勝手に喋るな」
 ぐたりと床に横たわったユウの顔を上げさせ、男が軽く頬を叩く。
 ユウはすみません、と声にならない声で乾いた唇だけを動かした。
「ホントに躾のできてないイヌだ」
 男は苛立たしげに呟くと、ユウから離れてソファにどさりと腰を下ろした。

「カィリ」
 男の声に、すっと青年が現れる。明らかに日本人以外の血が入っていることが伺える容貌。長い足をジーンズに包み、白いシャツを素肌に羽織っていた。
「何か飲まれますか?」
「ハーブティかなんかもってきてくれ」
 男の言葉に頷き、ちらりと後ろを振り返る。
「あの子に水をあげても?」
「駄目だ」
 カィリと呼ばれた青年は、憐れむように床のユウを見下ろした。
 その山荘は、林の中に建っていた。夏には青々とした葉を見事に繁らせ、涼しい木陰を作ってくれる木々も、今はすっかり冬枯れて、いかにも寒々しく、その山荘を取り囲んでいる。
 山荘の持ち主は、変わり者の芸術家だった。山荘の、というより、この山そのものの持ち主であり、山荘はいわば私有地に建っている。山荘への私道は、普段は閉鎖されていて、ここを使うのは、山荘への客と、山荘へ荷物を運ぶ業者の車だけだった。
 山荘の芸術家は、名を城猛と言った。裸しか描かない事で有名で、紙一重でただのポルノになりかねないものを、絶妙な匙加減で芸術に仕立て上げ、それなりの地位と名声を得ている。
 この山荘は、アトリエ、という事になっていた。
 が、実際のところ、もうほとんど仕事はしていない。これから先、一切働かなくても、一生暮らしていけるだけの蓄えが、城には十分あった。
 山奥にアトリエを作り、そこで静かに暮らす、というのは、かねてからの城の計画で、木で出来た家に、自分の気に入ったものだけを設え、電話と活字は排除して、好きな事をして人生を楽しみたいものだ、と城は常々思っていた。
 そして、七年前、男はその通りのものを手に入れた。
 そのアトリエに、どうしても必要な最後のものを手に入れたので、山荘を建てたと言ってもいい。


 ◆◇◆


「明日から、イヌが来るぞ」
「…いぬ?」
 ぼんやりと呟くと、カィリは瞑っていた目を開き、自分にのし掛かっている男の顔を見上げた。
「教授んとこのイヌを、冬休みの間、預かってやる事になってね。若いぞ。まだガキだ」
 …あぁ、そのイヌか。
 男の言葉の意図するところを理解して、曖昧な表情を浮かべるカィリに、城は低く笑って腰を引いた。
「妬いとるのか?」
「妬きませんよ」
「ココが、嫉妬にヒクついとるぞ」
 ほんの先端だけを埋め、城が小刻みにそこを揺する。
「お前は昔から、ベッドの中では素直じゃないな」
 おかしそうに言いながら、城は繋がった部分に指を這わせた。
「普段はあんなに従順なのに」
 言葉と共に、限界まで広がりきった結合部分に、むりやり指先をめり込ませる。
「ひっ」
 裂けるような痛みに、ひきつった声をあげ、カィリは身悶えた。
 逃げを打つ身体を押さえつけ、城は容赦なく指を動かす。
「うぅっ、あ、あぁっ」
 激痛に、カィリは悲鳴を押さえられなかった。
「心配せずとも、お前以外のヤツを、可愛がる気はないよ」
 無体を強いる行為とは裏腹に、男の声はどこか優しい。
「ちょっとばかし、ペットを預かって、遊ぶだけだ。犯したり、いたぶったりして、新たなインスピレーションを得るためにね」
 カィリの頬を撫で、男が言う。
 その背にすがりつき、カィリは身体を仰け反らせた。
 
 ◆◇◆


 カィリは売れないモデルだった。
 顔もスタイルもまるで絵に描いたようなモデルで、申し分ないのだが、かえってそれがつまらない。個性がない、華がない、色気がない。
 それがカィリに付いて回った評価だった。
 カィリもそれは自覚していて、何とかしようと藻掻いた時もあったが、努力して出てくるものでもないことを、じきに悟って諦めた。
 仕事もなく、当然金もなく、時間はあるが、やりたいことはない。
 そんな生活を送っていた時、耳にしたのが、画家、城猛のモデル募集だった。
 今回の募集は男。
 募集条件は、容姿端麗、年齢三十五歳以下、とあった。
 裸しか描かない画家のモデルなのだから、当然ヌードになるわけだが、名が知られている上、金払いも良いこの男のモデルをやりたがる男は、ごまんといた。
 時には、男色家だというこの男を、身体で籠絡して、そのモデルの地位を得ようとする奴もいるらしい。
 だから、書類審査と面接を経て、自分に決まったと聞かされた時は驚いた。
 さらに、一日のモデル仕事の後、専属にならないか、と言われた時には、自分の耳を疑った。
「あの、僕で、良いんですか?」
 思わずこう言ってしまったカィリに、男は薄く笑って口を開いた。 
「専属という言葉の意味は分かるか?」
 言葉の意味は分かったが、男がこんなことを聞く意図が分からない。
 曖昧な表情を浮かべるカィリに、城は言った。
「おれに、全てを差し出せと言ってるんだ。身も心もおれに委ねて、おれの好きにさせろ、そういう意味だ。分かるか?」
 自分を押さえつけるような視線に臆しながらも、カィリは男の顔を見つめ返したが、言葉は出なかった。
「期間はそうだな、二年間てとこか。それ以降は好きにしろ。報酬は、お前が好きに決めていい。いくらでも構わない。前払いでも、二年後でも、月々でも、お前の好きにしてかまわん。おれも、お前を好きに扱う。殺さない、身体に残る傷はつけない。おれ以外の奴が手を触れることもない。ただ、二年間は自由を奪わせて貰う。これが条件だ」
 目の前につきつけられた、得体の知れない仕事。
 何が潜んでいるか分からない、暗い穴に手を突っ込むようなもので、手を出すのには、勇気が要った。
 穴から手が抜けないかもしれない。突っ込んだ手を食われるかもしれない。穴の中の闇へ、引きずり込まれるかもしれない。
 怖気を震いながらも、カィリはこれを受けた。
 きっと、何かが起こる。
 知らない自分に、会えるかもしれない。
 押し潰されそうな不安と、微かな期待を抱えて迎えた二年間は、自分の想像をはるかに超える、苦痛と屈辱と快楽と愛に満ちていた。
 以前の自分の生活、いままでの自分、そんなものがかき消えてしまう程、濃密な時間。
 そして二年後。
 カィリは男から一銭も受け取らず、そればかりか、その後も側にいさせてくれと懇願した。
 それから六年。
 二人はこの山荘で、共に過ごしている。
 
 ◆◇◆


 男がイヌで遊ぶのは、これが初めてではない。
 ただ、今までのイヌは、飼い主と共にやってきて、一日を過ごした後、せいぜい一泊するくらいで、すぐに帰っていったから、こんな風にイヌだけが、しかも何日もいる、というのは初めてだった。
 それに、今度のイヌは、今までで一番若い。
 カィリの目には、せいぜい高校生くらいにしか見えなかった。
 これは、れっきとした犯罪なのだろう。
 ハーブティーを淹れながら、ぼんやりと思う。
 だが、世の中には、司法の届かぬ闇がある。
 あのユウという子は、そこに繋がれているのだろう。
 ここに連れてこられてからずっと、あの子はいたぶられ続けている。
 カィリが身をもって知っている通り、城は絶倫で貪欲で、しかもイヌに対しては、冷酷で容赦がない。
 城に「預かって貰う」為に、ここに連れてこられた少年は、整った綺麗な顔立ちをしていたが、その表情はぼんやりと無表情で、目は暗澹としていた。
 少年を連れてきたのは、その義理の父親だという。
「一週間程旅行に行くので、その間、預かって欲しい。勿論、好きにして構わないから」
 城とその父親は、「そういう趣味」の仲間で、少年の噂を聞いていた城は、その申し出を、嬉々として受けた。、
 細い肢体、白い肌。切れ長の目はいつも伏せられていて、そして滅多に声をあげない。
 その子はまったく、城の好みそのものだった。
 大げさに喘いだり、泣き喚いたりするのを城は「はしたない」と言って嫌う。
 こらえきれずにこぼれる、か細い悲鳴や、押さえきれずについ漏らされる、微かな喘ぎ。
 それこそが男の聞きたいものなのだ。
 屋敷に迎え入れるやいなや、着込んでいた制服を着せたままで、床に敷き詰められたふかふかのムートンのラグに押し倒して、好き放題に犯した。制服姿の少年をいたぶるのに飽きると、全てを脱がして、義父から預かった首輪を填めた。
 それ以来、ユウは彼のイヌとして扱われている。
 世話をするのはカィリだ。
 夜は毛布と共に男が手ずから作った、木製の檻に入れられ、食べるものこそ、カィリの作った、ちゃんとした食事…ヒトの…を与えられたものの、床の上で這ったまま、犬用の食器(白い陶器でできていて、可愛らしいほねのイラストが、赤くプリントされている)で食べることを強要された。
 朝も夜も構わずに繰り返される陵辱。
 男はことに、その白い身体に痕を付けることを好み、ユウの身体には、常にあちこち、点々と紅が散っていた。
「痕さえ残らなければ、何をしても構いませんよ。治る傷ならいくらでもつけてやって下さい」
 ユウを引き渡すとき、義父が笑顔で言った言葉に男は喜び、その白い肌をきつく噛んだり、爪を立てたりして、傷をつけた。
 男に散々貪られて、正体無く床で眠るユウを、カィリは風呂に入れて、檻に寝かせてやった。
 

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