ほんと、誰もいねーな…
ガタガタと座りの悪い机に腰掛けて、窓の外を眺める。
普段なら、サッカー部や野球部の連中が居るはずのグラウンドだけど、今日はさすがに人影がない。
だって、冬休みだもんな。光樹は勢いよく机から飛び降りた。
ついでに今日は12月24日。クリスマスイブだし。こんな日に、好きこのんで学校に来るやつなんて居ない。
汚れた上履きのつま先を見ながら、ゆっくりと教室の中を歩き回る。誰もいない教室は、がらんとしていてほこりっぽい。光樹は、教壇の上に上ると、ぐるりと教室の中を見回した。
窓際の自分の席を見てみる。
ふうん。こんな感じなんだ…。いや、先生はもうちょっと背が高いからこんな感じかな?
背伸びして、こつこつと机を指先で叩く。教卓に手をついて何かの説明をする時、先生は必ずこうする。
光樹は大好きな人の癖を思い浮かべて小さく笑みを漏らした。
眼鏡と白衣とこの癖のせいで、周りからは神経質だと思われているけれど、実際は神経質とはほど遠い。
ほんとに、いい加減なんだよな。
ここまで考えて、光樹はちょっと心配になった。
今日のデートの約束、忘れてるんじゃないかな?
先生なら、あり得る。
一人頷き、光樹は教室を出ることにした。
約束の時間には、まだ早いけれど、先生の居る場所なら分かってる。光樹は教室を飛び出すと、静まりかえった廊下を疾走した。


滑りの悪い木のドアは、開けるとがらがらと大きな音がする。入り口の脇の電気をつけると、真っ白な明かりが教室を満たした。ふつうの教室とは違う、化学室特有の奇妙な匂い。
 光樹は、真っ黒に塗られた実験テーブルが並ぶ部屋をまっすぐに通り抜け、教室の突き当たりにあるドアをノックした。
「はい」
中から聞こえる大好きな声。
光樹はすっかり嬉しくなって、化学準備室、とプレートのついたドアを開けると、部屋の中に飛び込んだ。
「いらっしゃい」
光樹の顔を認めた途端に、白井が目尻を下げて微笑む。こんな顔は、光樹の前でしかしない。いつもはもっと、とぼけた無表情ともいうべき顔をしている。
自分の前でしか見せない顔にすっかり安心した光樹は、立ち上がった白井にぎゅっと抱きついた。
 洗い晒した白衣の感触を頬に感じながら、化学室の匂いと混じった白井の匂いを胸一杯に吸い込む。
「久しぶりですね」
光樹のくせのある髪をなでつけながら、白井が優しい声で言う。光樹は顔をあげると、「同じ学校なのにね」と笑ってみせた。
白井にくっついたまま、気になっていることを確認する。
「デートの約束憶えてる?」
もしかしたら…という光樹の予想に反して、白井はちゃんと憶えていた。
「もちろん」
笑って頷いた白井が、光樹の顔を覗き込む。
「忘れるわけ、ないでしょう?」
今までさんざん忘れたことがあるくせに〜!…とは言わずにおいてやるか。
光樹は笑って目の前の頬に軽く口づけた。



「ここですんの?」
「クリスマスはどこも混んでますからねえ。僕の家はムリですし」
たしかにクリスマスの街は、どこもごちゃごちゃと混んでいて光樹もあまり好きではない。白井の家は、学校の職員寮だから、当然ムリだし。
だからと言って化学室じゃあ…あんまりクリスマスっぽくない。
…けど、クリスマスぽいとかぽくないとか、そんなことはどうでもいいか。
だって二人きりなんだし。
光樹はさっさと気持ちを切り替えると、化学室クリスマスデートを思い切り楽しむことに決めた。
「とりあえず、どうする?」
化学室をぐるりと見回してから、くるりと白井を振り返る。
「お腹、空いてるでしょう?」
言われた途端にお腹がぐぅと音を立てる。
光樹は思わず赤くなると、慌てて何度も頷いた。


「ガスバーナーをつけて下さい」
ハイ、とマッチを手渡され、光樹は少しうろたえた。
ガスバーナーってどうやってつけるんだっけ??
「どうしましたか?」
ガスバーナーを前に固まっている光樹を、白井が不思議そうに見下ろす。
「忘れた」
困って白井を見上げると、白井はおやおや…とからかうように笑って、光樹の手からマッチを取り上げた。
「一年生の時、習ったでしょう?」
ガスバーナーの付け方は、理科の授業で習い、付け方のテストなんてものまである。
「一年って、中1だろ?もう3年も前だもん。忘れるよフツー」
口をとがらせて言う光樹はずいぶんと子どもっぽくて、思わず笑ってしまう。
普段の顔は、大人っぽくなったと思ったけれど、やっぱり変わってないなあ。
白井はなんとなく安心すると、光樹の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、も一度覚えましょうか。よく見てて下さいね」
わざと教師ぶった口調で言う白井に、光樹が顔をほころばせる。
「先生にこうやって何かを教えて貰うのって、久しぶりだ」
「ちょっと昔を思い出すでしょう?」
「だね」
昔々、家庭教師とその生徒だった頃を、二人ともなんとなく思い出していた。




「ちょっと、ちぐはぐなメニューでしたね」
机の上を見渡し、白井が小さく苦笑を漏らす。
ガスバーナーの上であったまっているアルミ容器にはいったうどん。
同じくおいしそうな匂いを漂わせているチキン。
たしかにクリスマスのメニューとしては、ちょっとヘンだ。
「何にしようか迷ったんですけど、たしか光樹はうどんが好きだったような気がして…」
「知ってたの?」
光樹は少しびっくりして白井の顔を見た。
一番好きな食べ物はうどん。
しかも、天ぷらやたまごの入った鍋焼きうどん…今ちょうど、机の上でぐつぐついってるようなヤツ…が最高に好き。
こんな事、今まで話した事があるかないかは覚えてないけど、こんなどうでもいいことを白井が覚えていたのは意外だった。
なにしろ光樹の誕生日すら、なかなか覚えてくれかなったくらいなのだ。
「知ってたのかな?なんとなく思いついたんですよ」
白井は笑いながらガスバーナーの火を止めると、光樹の前へ料理を下ろした。
「あと飲み物…」
つぶやきながら、白井が何かを取りに行く。
戻ってきた白井が手にしているモノを見て、光樹は目を丸くした。
「…なにコレ」
「なにって、グラスですけど」
「…ビーカーに見えるんだけど」
目の前に置かれたのは、紛れもなくビーカーだ。
「これはグラス用のビーカーですから」
白井は真顔でこう言うと、泡立つ金色の液体をビーカーに注いだ。
二つのビーカーをぴったり250の目盛りまで満たすと、ちょうど瓶が空になる。
「さ、乾杯しましょう」
にっこり笑顔でビーカーを手渡されて、光樹は複雑な顔でそれを受け取った。
「乾杯!」
軽くビーカーがふれあわされて、ぢん!と鈍い音がなる。
「やっぱりグラスみたいに軽やかな音にはなりませんね」
がっかりした顔の白井に、光樹は真顔で言い返した。
「だってビーカーだもん」
「……しょうがないですね」
二人は顔を見合わせて笑うと、もう一度シャンメリー入りのビーカーをかち合わせた。
「メリークリスマス!」


座りにくい丸椅子をくっつけて、肩を寄せてうどんをすすり、一口ずつチキンを囓る。
二人きりの慎ましやかなパーティーは、質素ではあったけれどすごく楽しくて、食べ終えた光樹は天井を仰いでため息をついた。
「お腹、いっぱいになりましたか?」
上を向いた視界に、白井の顔がぴょこんと現れる。
「うん」
量はけして十分じゃなかったけれど、気持ちがすごく満ち足りているから、お腹いっぱいだ。
上を向いたまま頷く光樹に、白井は笑って机の上を指さした。
「じゃあ、あれは入らないかな?」
白井の言葉に、慌てて机の上を見る。
「ケーキ!?」
目の前のものに、光樹は思わず目を丸くした。
「甘いもの、好きでしょう?」
優しく目を細めて、白井が光樹を見つめる。
「買ってきてくれたの?」
白井がケーキを買う姿なんて、とてもじゃないけど想像できない。
「この日ばかりは僕が買っても、不自然じゃないですからね」
光樹の考えたことが分かったのか、白井は小さく目配せをすると、箱からケーキを取り出した。
真っ白なクリームに覆われたブッシュドノエル。
ぴんくのうさぎや小さなきのこで飾られて、可愛らしい雰囲気だ。
オレ達には似合わないけど…すごくうまそう。
「このきのこもね、食べられるそうですよ」
目を輝かせてケーキに釘付けになっている光樹に、白井は笑って説明した。
「…それで切るの!?」
白井が手にしているものに、仰天する。
「ちゃんとナイフ用のですから」
「解剖を思い出すんだけど…」
白衣を着て、小さなメスを手にした白井は、とてもケーキを目の前にした人には見えない。
「じゃあ、カットせずに食べますか?」
「どうやって?」
こんなでかいケーキ(たぶん4.5人前)切らずにどうやって食うんだ?
光樹がきょとんとしていると、白井は笑ってメスを置いた。
「こんな風に」
細い指がクリームを掬い、光樹の口元に寄せられる。
「………」
光樹は黙ったまま、ぺろりと白井の指を舐めた。
「おいしい?」
「…うん」
とりあえず頷く。
「でも、これじゃあ食った気がしないから、やっぱり切って」
白井の手から食べさせて貰うなんて、恥ずかしくてしょうがない。
光樹は赤くなった顔を隠すようにそっぽを向くと、わざとぶっきらぼうに言った。
「はいはい」
くすくす笑いながら、白井がケーキを切り分ける。
手づかみで、目の前に差し出されたケーキに、光樹はがぶりと食いついた。



「明かり、消しましょうか」
ケーキもあらかた食べ終えて、二人でとりとめもなく話していると、白井が突然口を開いた。
「どうして?」
「クリスマスらしく、ろうそくでも灯しましょう」
立ち上がった白井が、奥からろうそくを手に戻ってくる。
真っ白なろうそくは防災用にしか見えないけれど、ステンレスのシャーレに立てるとそれなりに雰囲気が出ていい感じだ。
光樹は入り口まで戻ると、三つ並んでいるスイッチを次々にオフにした。
部屋の奥から、順番に明かりが消えていく。
「結構明るいね」
「今日はいいお天気ですからね」
大きな窓の向こうから、月光がほのかに差している。
床に伸びた白井の影を踏まないように気をつけて、光樹は白井の側へ戻った。
白井が手つきも鮮やかにマッチを擦ると、しゅっという音と共に、ブルーの炎があがる。
「わ!」
「綺麗でしょう」
白井は、手早くロウソクに火をつけると、光樹の目の前にマッチをかざした。
「炎色マッチですよ。ほんのちょっとの間しか、青くなりませんけど」
青から赤に色を変えた炎に飲まれて、あっという間に軸木が短くなってくる。
危ない!
光樹がそう思った途端、白井がふっと炎を吹き消した。
白い煙が、暗闇の中に細く漂う。
「なんか、ムードあるね」
ほの暗いロウソクの灯りに照らされた白井の顔を見上げる。
「でしょう?」
白井は小さく笑うと、そっと光樹を抱き寄せた。
「窓際に、行きましょうか」
促されるまま、窓際の机へ移動する。
「雪、降らなかったね」
光樹は、窓に顔を寄せて空を見上げた。
ガラス越しに、ひんやりした夜気を感じる。
思わず小さくくしゃみをすると、白井が心配そうに光樹の顔を覗き込んだ。
「寒い?」
「少し」
さすがに真冬の教室は、底冷えがして、つま先から冷気が忍び寄ってくる。
「待ってて」
暗闇に光樹を一人残し、白井がどこかへ行ってしまう。
光樹は、机に腰を掛けると、わずかに揺れ燃えるろうそくの炎を見つめていた。
こんなに静かで、そして幸せなクリスマスを過ごすのは、初めてな気がする。
でも、去年の今日も、今と同じに先生が好きだったな。
あのころは、まだ片思いだった。
去年の事を思い出して、小さく笑う。
片思いのクリスマスはさみしくて、さみしさをごまかそうと、友達とさんざん騒いで深夜過ぎに家に帰り、白井の事を考えて眠ったクリスマス。
「お待たせしました」
どこから持ってきたのか、毛布を手に戻ってきた白井に、光樹はぎゅっと抱きついた。
「…どうしたんですか?」
机の上に毛布を置き、白井の手が優しく光樹の髪を撫でる。
「去年の事を考えてた」
「去年の?」
「去年のイブは、まだ片思いだったな…と思って」
白井は光樹の身体を抱き返すと、独り言のように話し始めた。
「私も…今ちょうど同じ事を考えてました」
静かな声に、光樹が顔をあげる。
「去年の今日も、私はここで過ごしました。といっても、隣の準備室で…ですけど。なんだか、自分の部屋には居たくなくて」
学校の片隅にある独身寮は、かなり古い建物で、白井と管理人しか住んでいないらしい。すきま風が吹き込んで冬は寒い、と白井が言っていたことを思い出す。
光樹は、鬱蒼とした木に囲まれた木造建ての独身寮を思い浮かべ、たしかにあんなところで一人、クリスマスの夜を過ごす気にはなれない、と白井に同情した。
「あの日はとても寒かったでしょう。ちょっとみぞれがちらついたりなんかして。だから、今と同じように部屋から毛布を持ってきたんですよ。ストーブをたいて、毛布にくるまって…冬眠中のかめとイモリと一緒にクリスマスイブを過ごしたんです」
かめもイモリも理科室で飼っているペットだ。
とぼけた白井の話に、光樹は小さく笑いを漏らした。
「一晩中、なんだか眠れなくて…ずっと、あなたの事を考えてました」
まるで告白するように囁かれた言葉に、光樹はぴくりと顔をあげた。
「先生…」
「私も片思いだと…思ってましたけど」
白井の指先が、そっと光樹の頬に触れる。
「両思い、だったんですね」
「そうみたいだね」
額をつき合わせ、目と目を見合わせる。
「ちょっと、損したかな」
「まぁ、片思いを経験しておいた方が、よりいっそう今の幸せの大切さが分かるでしょうし」
「そっか」
途中までいいムードだったのに、なんだかいつもの調子に戻ってしまう。

「今夜は星が綺麗ですからね。天体観測でもしましょう」
窓際の机に、白井が毛布を敷いてくれる。
光樹は、机の上によじ登ると、窓の外を眺めた。

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