いつ来てもイヤな雰囲気…
ボロアパートの前に立ち、葵は首を竦めて辺りを見回した。
大学の裏手にあたるこのアパートは、ただでさえ日当たりが悪い上に、何故だか周りを竹林に囲まれていたりして、昼間でもなんだか薄暗い。
そんな中に、廃屋に近いようなアパートが建っているのだから、夜中なんかはお化け屋敷も顔負けの陰惨な雰囲気を醸し出している。
よく、好きこのんでこんなトコに住むよなぁ…
葵は、足を進めるたびに朽ち落ちそうな音を立てて軋む、錆びだらけの階段を上りながら、その物好きの顔を思い浮かべた。
まぁ、あの人は寝られりゃどこでも…公園だって構わないって人だもんな。
ドアの前で、重たい買い物袋を持ち直し、指の背でドアをノックする。
ノックなんかしなくたって、ここのドアの鍵は壊れていて掛からないから、年中オープンなんだけど、まぁ一応。
「…先生？」
ノックをしたのに、返事が無い。
葵は、そっとドアを開けると、部屋の中を窺った。
相変わらず、ひどく散らかった部屋の中に芹沢の姿は見えない。
部屋の中の淀んだ空気が、鼻先を掠めて、思わず顔を顰める。
…居ないなら、丁度良いや。
葵は、さっさと部屋へ上がり込むと、足先でゴミの山…本やら紙やらおもちゃやら服やら、とにかくごちゃごちゃしたモノ達…をかきわけながら、窓へと向かった。
大きくカーテンを開け放つと、盛大に埃が飛び散る。
息を詰めて、目の前に浮遊する埃を手で払いのけながら、葵は窓を全開にした。
窓の外は、妖怪ハウスでもありそうな竹林で、お世辞にも眺めが良いとは言えないが、取りあえず新鮮な空気だけはある。
「…よし」
葵は、腕まくりをすると小さく気合いを入れて、猛然と部屋の掃除をはじめた。


「あれ？たまちゃん」
掃除があと少しで終わるころ、ひょっこり部屋の主の芹沢が帰ってきた。
綺麗になった部屋と、部屋の隅で本の整理をしている葵を見て、目を丸くする。
「どこ行ってたんだよ、先生」
葵は、埃だらけの本を雑巾で拭きながら、芹沢を振り返った。
「どこって大学。本借りに」
そういう芹沢は、両腕に本を抱えている。
「…その格好で、大学行ったの？」
「いけない？」
非難めいた葵の声に、芹沢が自分の姿を見下ろす。
Ｔシャツにジャージ、足下は下駄。
芹沢にとっては、一応外出着なのだが、葵は溜息まじりに言った。
「一応さぁ、大学の講師なんだから、休みとはいえ、大学行くときくらい、ちゃんとした格好した方が…」
「ちゃんとしてるじゃない」
下駄を脱ぎ散らかし、部屋にあがりながら真顔で芹沢が言う。
「それのドコが！それじゃまんま部屋着じゃん」
呆れる葵の前で、芹沢はさっさとジャージを脱ぎ捨てた。
「部屋着はコッチ」
Ｔシャツに、下はトランクス一枚というあられもない姿になって、芹沢がわははと笑う。
葵は、もう何も言う気になれなくて、黙ってジャージを拾い上げた。
「そういえば、どうしてたまちゃんが居るの？」
「たまちゃんは止めて下さい。先生が、休みだから飯作りに来いつったんじゃないですか」
綺麗になった部屋へのお礼もなく、座椅子に座って本を読み始める芹沢に、葵が憮然として言う。
「そんなこと言ったっけ？」
「覚えて無いんですか？」
思わずむっとして、葵は手にしたジャージを洗濯かごへと放り込んだ。
「先生、オレの作った和食がくいたいって言ったじゃないですか」
和食のレパートリーはあまりないから、わざわざ本屋で立ち読みしてレシピを覚えて、食材を買い込んでやってきたというのに…
葵のむっとした雰囲気が伝わったのか、芹沢がわざとらしくあぁ！と手を打つ。
「そういえば、そうだったね。何、作ってくれるの？」
「…作る気失せた」
「まぁまぁ。そう言わずに…」
芹沢が、ご機嫌窺いをするように、葵の顔を覗き込む。
「頼むよ。ね？」
「……分かったよ」
溜息まじりに、しぶしぶ承知したフリをする。
頼まれると断れないって、先生に読まれてんだろうなぁ…
なんのかの言って、芹沢にいい様に扱われている気もするけれど…まぁ良いか。
わずかに緩んだ頬を引き締めて、葵はびしりと芹沢に指を突きつけた。
「飯の前に、風呂はいって下さいね」

今となっては、もう使い慣れた台所で、手際良く料理をする。
芹沢はからすの行水だから、十分もせずに出てくるだろう。
葵は、冷蔵庫を開けると、ビールが冷えている事を確認した。
今日のご飯はさばのみそ煮、焼きナス、冷や奴、野菜たっぷりのみそ汁にレンジでチンするごはん。
炊飯器があったら、炊きたてのご飯が食べられるんだけど…無いものはしょうがない。
風呂場から聞こえてくる調子外れの鼻歌に、葵は思わず噴き出しながら、酒のつまみを盛りつけた。
「おーい。たまちゃん」
芹沢が風呂からあがったらしい。
呼ぶ声に振り返ると、芹沢が体中から雫を滴らせて、脱衣所と部屋を仕切るのれんから身体をのぞかせている。
「わっ。そんな格好で出てくんな！床がびしょびしょに…」
「着替え、ドコ？」
「洗濯機の上！！」
葵は叫ぶと、雑巾を持って濡れた床を拭きに走った。
どうしてこうこの人は、いちいち手間を掛けさせてくれるんだろ…
うんざりしながら、床を拭く。
「お。悪いね」
葵が用意した作務衣に着替えた芹沢は、ちっとも悪いと思ってない口調で言うと、葵の頭を軽く撫でた。
「たまちゃんは、ほんとによく気の付く良い子だなぁ」
「止めて下さい。たまちゃんって呼ぶなっつってるでしょ」
邪険に芹沢の手を払いのけ、葵がきつい目で睨む。
「んな怖い顔しなくても…。たまちゃんじゃなけりゃ、一体なんて呼べば良いのさ」
不満そうな顔の芹沢を、座椅子へと追いやると、葵は冷蔵庫からよく冷えたビールを取り出した。
「玉越でも、葵でもいいから…」
芹沢にビールを手渡しながら、念を押す。
「たまちゃんだけは止めて下さい」


「コレ、何？」
「ネギチャーシュー。酒のつまみに」
「すごく美味しい、コレ。初めて食べたよ」
「そりゃ良かった」
うまそうに食べる芹沢に、葵は満足げに笑うと、芹沢の前に皿を並べた。
「全部食ってくださいね。普段どうせロクなもん食ってないんだから」
芹沢の部屋のごみを片づければ、イヤでも分かる。
コンビニ弁当・カップ麺・おつまみと酒…これが芹沢の常食だ。
「たしかに、こんな旨いごはんは久しぶり…」
芹沢は、言いながらずずずと音を立ててみそ汁を啜った。
「あ、シイタケ…」
みそ汁から、椎茸の薄切りをつまみ出して、芹沢が顔を顰める。
「僕、シイタケ嫌い…」
「文句言わずに食べる！」
「…ハイ」
一喝されて、しぶしぶ芹沢がシイタケを口に放り込む。
「美味しいだろ？」
葵は、砂でも噛むような顔をして口を動かしている芹沢の顔を覗き込んだ。
「ん〜、まぁ食えない事も無い」
やっと、という体でしいたけを飲み下した芹沢に、思わず笑ってしまう。
「今回だけですからね」
葵は、芹沢のお椀を取り上げると、中からしいたけをよって口に入れた。
「こんなに美味しいのに」
もぐもぐやりながら、芹沢にお椀を返す。
「今度はちゃんと食べるよ」
芹沢は、笑って残りのみそ汁を飲み干した。


「たまちゃ…もとい、葵くん」
「なんでしょう？」
ちゃんと名前を言い直した芹沢に、葵は気をよくして、愛想よく聞いた。
「一緒に晩酌しようか？」
芹沢が笑ってビールの空き缶を振る。
「オレ、未成年なんだけど」
一応断りつつ、冷蔵庫を開けて缶ビールを二本取り出す。
あまり酒は強く無いけれど、酒を飲む芹沢を見るのは好きだった。
酔いはじめると漂う、うさんくさい雰囲気が、なんとも言えず良くて気に入っているけれど、勿論それを口に出したことは無い。
葵は、芹沢にビールを渡すと、自分の缶を軽くぶつけた。
「乾杯」


「たまちゃん。眠いの？」
「ん……」
たまちゃんと呼ばれたことも気にならないくらい、まぶたが重い。
ビールを一本あけるかあけないかなのに、襲ってきた猛烈な眠気。
「眠かったら寝て良いよ。明日は何限から？」
「三限…」
「なら、起こしてあげるから」
そんなこといって、今まで一度だって、芹沢が起こしてくれたためしは無い。
葵は、よろよろと目覚まし時計に手を伸ばしかけ…力つきて倒れた。
あっという間に眠りの淵へ引きずり込まれる。
いきなり床に倒れるようにして、寝入ってしまった葵に、芹沢は少しびっくりして、葵の顔を覗き込んだ。
「たまちゃん？寝ちゃった？」
返事は微かな寝息だけ。
随分大人っぽくなったと思ったけれど、寝顔を見ると昔の葵を思い出す。
芹沢は小さく笑うと、手近にあった新聞紙を広げて、葵の上にそっと掛けた。
「おやすみ…」