楽園

楽園

  第一章

「おぉ」
 思わず声が出た。
 海だ。池でも川でも湖でもない。
 寄せては返す白波に、海なんだなあと実感する。
 こうやって砂浜から海をみるのは随分久しぶりだった。 船には何度か乗ったけれど、船から見る海原は広すぎてどこか近寄りがたいし、港の海は実用的な顔をしていて素っ気ない。
 おれは、いそいそとジーンズの裾をめくりあげると、靴を脱ぎ捨てて足を浸した。
「つめて」
 黒っぽい砂浜は足の裏に心地よくて、波打ち際をばしゃばしゃと歩く。ただそれだけのことがとても楽しくて、おれはいつになくはしゃいだ気持ちで、水平線に向かって伸びをした。
 両手をうんと空に突き上げて、深呼吸する。
「はぁ」
 すごくリラックスした気分。やっぱり、のんびりするなら南国だなあ。
 日本に帰る前に、来られて良かった。
 おれはしみじみ実感しながら、砂浜に座ってぼんやりと海を眺めた。
 今のところ、何の予定もない。
 決まっていることといえば、十日後に日本に帰るということくらいで。これだって、いくらでも変更できる。きょう一日、こうやって海を眺めていたって構わない。
 おれは小さく笑うと、さらさらした砂を指先で弄りながら、海原をゆっくりと走る小さな帆船を眺めていた。
「ん?」
 ふと、気配を感じて振り返る。
 犬だ。焦げ茶色の長めの毛をした犬が、思慮深げな目をしてじっとこちらを眺めている。
「おいで」
 手招きすると、しっぽをふりふりやってきた。
「よしよし」
 身体をすり寄せるようにして懐いてくる犬の額を、そっと撫でる。
「キング」
 遠くから聞こえた声に、おれは反射的に振り向いた。犬と一緒に。
 呼ばれた犬は、嬉しげに向こうから歩いてくる男の元へと走っていく。
 その髭面で眼鏡の男を見て、おれはびっくりした。
 日本人だったからだ。
「ハロウ」
 その男は、おれを見ると笑ってこう言った。
「こんにちは」
 挨拶は英語だったけれど、その発音は日本人まる出しだったから、おれは笑って日本語で挨拶を返す。
「日本の方、ですよね」
 確認を込めて聞くと、男は笑顔のまま頷いた。
「まさか、こんなところで日本人に会うとは思わなかった」
 言いながら、おれの隣に腰を下ろす。
「観光か?」
「ええまあ。そんなトコです」
 おれがここに来たのは、単なる偶然で、目的は何も無かったけれど、来たからにはまあ観光ぐらいするだろうから、いちおうそう答えておく。
「見るトコなんて何も無いぞ。あるのは海だけだ。名所もないし、旨いものも無いし、買う土産もないし、おまけに物価は高いと来てる。観光には不向きなとこに来ちゃったな」
「そうなんだ」
 何も下調べをしてこなかったから、改めて知る事実に少し驚く。
 どおりで昨日のタクシーと言い、ホテルといい、なかなかの値段を取るわけだ。
「ここに来る奴は、クルージング目当ての金持ちリゾート客ばっかだよ」
「おれはクルーザーも持ってないし、金持ちでもない」
 首を振って言うと、男は見りゃわかる、と笑った。
「見るからにビンボーそうなナリだもんな」
 この日のおれは、履き古したジーンズによれよれのTシャツで、たしかに貧乏くさい格好をしていた。
「ま、どっちにせよ歓迎するよ。ここで日本人に会うのは初めてだし」
 男は、仲岡達也だと名乗って手を出した。
 出された手を握り返す。
 しっかりとした、大きな手だった。日に焼けて、ごつごつしている。
「穂高康司です」
 日本語で、自己紹介をするのもすごく久しぶりだ。日本語で会話をすること自体、二ヶ月ぶりくらい。
 何も考えずに口から出てくる言葉の心地よさといったら、あまり喋る方ではないおれが、思わず饒舌になってしまいそうになるくらいだ。
「仲岡さんは、仕事でここに?」
「イヤ、特に仕事でって訳じゃないけど。俺はどこででもできる仕事してるから」
 どこででもできる仕事、が気になって、突っ込んで聞いてみると、芸術家なんだと彼は笑った。
「陶芸が専門でね。でも、金にならないから仕事じゃないな」
 実際のところ、金には困っていないので、仕事らしい仕事はしておらず、好きなものを作って、欲しい人がいれば売る、という生活らしい。
 うらやましいもんだ、と半ば本気を込めながらも冗談めかして言うと、少しの沈黙の後、「もう、隠居も同然だよ」と少し自嘲じみた返事が返ってきた。
「隠居って…仲岡さん、いくつなんですか?」
 日に焼けて無精ひげに覆われた顔は、少し老けて見えるけれど、おれより二つくらい上…三十歳くらいだろうと検討をつけて聞いてみると、二十六だという。おれは仰天した。年下じゃないか。
「あんたは?」
「二十八」
 答える声が自然に小さくなる。年上だと思っていた相手が、実は年下だったというのは、きまりが悪いものだ。
 おれの答えに、仲岡も驚いたように眉をあげた。
「年上なのか」
 若く見られて、普段なら嬉しい筈なのに…
「年下かと思った」
 嬉しくないどころか、妙に恥ずかしい。
「仕事は?何してんだ?」
「今は特に何も」
 四年前に務めていた会社をやめて、それ以来ずっとバイト生活だ。一年の半分は海外をふらふらしていて、金が尽きると日本に戻ってしばらくの間、日夜バイトに明け暮れる。
 今回は、東欧からロシアにかけて、二ヶ月ほど旅をした。寒いのは嫌いじゃないし、旅も十分楽しんだけれど、冬という季節はどうにも気が鬱々としがちで、日本に帰る前のリハビリにと、熱い太陽の輝く南国を選んだ。
 適当に地図を開いて見つけたのが小さなこの島国だ。
 そう話すと、仲岡はふぅんと頷いた。
「じゃあ、あんま金はないんだ」
「無い」
 帰りの航空券こそ確保してあるものの、手持ちの金は米ドルで五百を切っている。
「今はどこ泊まってんだ?ここらのホテルは高いだろ」
「昨日は遅くに着いたんで、タクシーの運転手にそこの坂を上ったところのホテルに連れてきて貰ったんだけど、安いところに移ろうと思ってる」
 昨日のホテルは一泊日本円にして九千円くらい。ベッドルームにダイニングキッチンつき、ベッドはクイーンサイズのバカでかい奴で、バスルームも広く、はっきり言って日本でおれが住んでいるアパートの何倍も豪華な部屋で、落ち着かないことこの上なかった。
 寝る場所はザコ寝で良いし、風呂トイレは共同で構わないから、安いところを知らないかと聞くと、仲岡はあっさり首を横に振った。
「この国には金持ちしかこないから、昨日お前が泊まったホテルみたいなのが標準で、そこより安いところはほとんどないし、ユースみたいな所も無い。野宿しても死なないけど、あんまりオススメできないな」
 せっかくのんびりできると思ったのに、思わぬ所に落とし穴。
 まさかこんなに物価の高い国だとは思わなかった。
 思わずがっくりするおれの肩を、仲岡が笑って叩く。
「こういう時は、素直に頼むもんだぜ。お前の所に泊めてくれってね」
 勿論、おれはその通りにした。


 ホテルからほど近い、海を臨む一軒家。小さいけれど、一人で住むには贅沢な広さだ。
「良い家だな」
 テラスから見える海を眺めて言うと、仲岡は借り物だけどな、と笑った。
「メシ、食うだろ」
「あ、うん」
 そこで待ってろ、とは言われたけれど、おれは仲岡の客という訳じゃない。
 どうにも落ち着かなくてキッチンを覗くと、仲岡は手際よく朝食を用意していた。
「スクランブルでいいか?」
「あ、うん。ありがとう」
「暇なら冷蔵庫からジュース出してくれ。欲しければミルクも」
 ミルクは欲しい。両方出しながら仲岡さん、ミルクは?と聞くと、俺はいい、と返ってきた。
「仲岡でいい」
「え?」
「さん、なんか要らないよ。呼び捨ててくれ」
 卵を皿に移しながら言う仲岡に、おれは笑って頷いた。
「じゃ、おれの事はヤスって呼んでくれ。知り合いは皆こう呼ぶから」
「分かった」
 できあがった朝食をテラスに運び、潮風に吹かれながら食べる。
「あの、泊めてもらった上に、飯までごちそうになっちゃ悪いから、少しは金払うよ」
 そっと切り出した話は、仲岡の顰めた顔で中断された。
「良いよ。金なんて。食費なんていくらも掛からないし、部屋は余ってるし、俺だって久しぶりに日本人と会えて嬉しいんだ。他人行儀なこと言うなよ。友達として、滞在して貰って構わない」
 きっぱりとした言葉に、甘えてしまおう、と決心する。
「何かして欲しいことがあったら、何でもするから」
 おれの言葉に、仲岡はそうして貰うよ、と眼鏡の奥の目を細めた。
 腹がいっぱいになった途端に眠たくなる。
 食器を片づけるのを手伝い、壁際のソファにくつろいだ途端、眠気が襲ってきて、うとうとしていると、仲岡が軽く肩を揺すった。
「時差ぼけか?寝るんなら、ベッドに行けよ」
 よろよろしながら、案内されるままベッドルームへと移る。
 広いベッドに身体を横たえた途端、おれは眠りに落ちていた。
 そんなつもりは無かったけれど、やっぱり疲れていたようだ。
 目が覚めた時には、部屋の中が薄暗くなっていて、おれはびっくりして部屋を出た。
「よく寝てたな」
 ぼさぼさ頭のおれを見て、仲岡が笑う。
「昼飯ん時も起こしたんだけど、起きなかったからほっといたぞ」
 言われた途端に腹が鳴る。キッチンの中はいい匂いでいっぱいだ。
「飯にするか。飲めるんだろ?飲もうぜ」
 その夜は、楽しかった。
 仲岡のうまい料理を食いながら、存分に小さな瓶に入ったこの島で作られている地ビールを飲む。
 おれの旅の話や、仲岡のこの島での話。
 話ながら、おれはすっかりうち解けていた。
 まるで、古い友達と久しぶりに会ったような、心地よさだった。  


 目覚めた時、自分がどこにいるのか分からなかった。
 ぼんやりと上を見上げ、天井にくっついている扇風機の羽根がゆっくりと回っているのを眺める。
 ようやく、意識がはっきりし始めた時、おれはようやく自分が裸なことに気がついた。
 足許に薄いシーツがまとわりついていたけれど、それ以外は何も身体を覆っていない。
「起きたか」
 いきなり聞こえた声に、おれはびくりと起きあがると、慌てて足許のシーツを引き寄せた。
「よく寝てたな」
 そういう仲岡も丸裸で、おれは仰天して目を剥いた。
 びっくりして口も利けないでいるおれの目の前で、仲岡は悠々とタオルを腰にまくと、水滴の滴る髪をタオルで拭いた。
「あの、おれ…」
「お前もシャワー浴びてこい」
 ようやく出たおれの掠れ声を無視して仲岡が言う。
 おれは頷くと、仲岡を見上げて言った。
「おれ、どうして裸なんだ?」
 昨晩の記憶は、定かじゃない。しこたま飲んだことは覚えているけど、酔ってからの自分の言動はさっぱり覚えていなかった。
「心配するな。何もしてないよ」
 面白くもない冗談に、はは、と乾いた笑いを返す。
「今はね」
 真顔で付け加えられた言葉に、おれは何故かどきりとした。
 たかが冗談の続きなのに、何も言葉が返せない。
「昨日、酔っぱらって酒をひっくり返したんだよ。お前はそのまま寝ちまったけど、シミになるといけないと思って脱がして洗濯しといたぞ。ついでにパンツもな」
「そ、そうか。ごめん。世話かけたな」
「気にすんな」
 仲岡は、短く言うと鼻歌まじりに部屋を出ていった。
 ベッドの上で、シーツにくるまったまま、しばしぼんやりとする。
 『今はね』
 たった一言が、耳から離れない。



 貴重なこの島での滞在の一日目を、寝て過ごしてしまったおれは、二日目こそ島を満喫することにして、朝飯を食ってすぐに、目の前の海へと出掛けた。
 仲岡は少し仕事があるからと言い残し、朝から部屋にこもっている。
 海へは、犬のキングがついてきてくれた。
 大人しくて優しい外見のこの犬に、キングという名はあまり合ってないようにも思えたけれど、「キングタウンで拾った」からキングというらしい。
 一緒に砂浜を走ったり、パンツ一枚になって少し泳いでみたり、疲れたら木陰で昼寝をしたり…。
 まさに理想的なリラックスタイムを満喫して、おれはすこぶる機嫌が良かった。
 砂浜に穴を掘っているキングに対抗して、両手で砂を掘り返し、ついでに砂山を高く築いて、トンネルを貫通させる。
 こんな子どもじみたことが、やけに楽しくて、おれは年甲斐もなくはしゃいでいた。
 自分がこんな事を楽しめるオトナだったんだと新しい一面を発見した気分。
まわりには誰もいないし、時折通りかかる近所の人は、みなにこやかだ。
「こら。壊すな」
 キングが体当たりするようにして砂山を崩し、それを止めようとしたおれを逆に押し倒して、顔をぺろぺろ舐めてくる。
 やめろと言いながらも、大笑いしていると、不意にキングが小さく吠えた。
「…楽しそうだな」 
 いつの間に来ていたのか、仲岡がおれを見下ろして笑う。
 おれは途端にきまりが悪くなって…年上なのに、こどもっぽ過ぎる…慌てて起きあがった。
「砂だらけだぞ」
 言いながら、おれの身体についた砂を払ってくれる。
「あ、うん…」
 照れ笑いをしながら、自分でもあちこちをはたいて砂を落とす。
「じっとして」
 仲岡の手が、そっと短いおれの髪に触れた。
 撫でるように優しい手の間から、ぱらぱらと砂が落ちる。
「昼飯だぞ」
 息をつめてじっとしていると、仲岡の手が離れた。
 キングを連れてすたすたと歩いていく後ろ姿を追いかけようとして、ビーサンを木陰に置いてきてしまった事に気がつく。
「早く来い」
「今行くよ」
 振り向いて言う仲岡に、おれはビーサンを握って、全速力で砂浜を駆けた。
 熱い砂浜に、今にも足をとられそうだった。


 どういう流れでこういう話になったのかは覚えていない。
 もしかしたら、唐突に聞かれたのかもしれない。
「あんた、友達多いだろう」
 バルコニーに出したデッキチェアの上で、仲岡はビール片手にこう聞いてきた。
 おれは、木の枝にとまっている、小さくて黒い鳥(飛んでいると、まるで大きな虫みたいに見える)を、じっと見ていたのだけど、振り向いて頷きつつ、どうして?と聞き返した。
「たしかに、友達は多いけど」
 ホバリングするようにして、木に咲いた鮮やかに赤い花の蜜をつついている鳥に気を取られながら、こう言うと、仲岡はどこか素っ気ない口調で言った。
「あんたみたいに、いつでも笑顔の奴は、友達が多い」
 仲岡の言うとおり、おれのデフォルトの顔は笑顔(笑うと目がなくなる)で、、人と接する時は、たいていこの顔になってしまう。
「でも、親友はいないだろ」
 付け加えられた言葉に、おれは少しどきりとした。
 図星だったからだ。
 すごく仲のいい友達もいるけれど、そいつらが親友かというとそうじゃない。
 でも、本当に信頼できて、何でも困ったことが相談できる親友、なんて誰もが持てるものじゃない。
 おれが、しどろもどろになりながら、そう言うと、仲岡は、ハハハと乾いた笑いを漏らした。
「そうかもな」
「仲岡こそ、親友は?」
 少し気になって…というよりも、仕返しのつもりで聞いてみる。
「親友はおろか、友達もいない」
 おどけた口調で返された答えは、本当なのか冗談か、判断つきかねた。
 おれの顔をじっとみて、仲岡が静かに口を開く。
「本気で人を好きになったことは?」
 きっと、これはおれの被害妄想なんだろうけれど、どうせないだろう?という響きが込められているような気がして…、おれは黙り込んだ。
 これが事実だったせいもあるし、思い出したくないことを思い出させる質問だったからでもある。
「おれはあるよ」
 仲岡は、ぽつりと言い残して、部屋の中に入っていった。
 聞こえない振りをして、飛んでいく小さな鳥を見つめる。
 水平線の右端に、まぶしい太陽が沈もうとしていた。


 どうでもいい会話をしつつ、だけど、どこかうち解けない雰囲気で、夕食を済ませ、おれは自分用にと分けて貰った部屋に引っ込んだ。
 こども部屋らしいけど、使ってないから。
 そう言われて通された部屋は、確かに少しこじんまりとして、置いてあるベッドも普通のシングルサイズだったが、十分だ。
 派手な水色に塗られた壁。天井も薄めの水色。海の中にいるみたいだ。
 おれは、少し埃っぽいベッドに横たわり…昔のことを考えていた。
 たった一度だけ、本気で人を好きになった事がある。
 おれは会社に入ったばかりで、相手は会社の上司だった。おれよりだいぶ年上のその人は、四〇に近かった筈だけれど独身で、仕事も遊びも人間関係も充実していて、いつも自信に満ちあふれていた。
 カリスマ性のある人で、彼のことを慕う人は山ほどいた。おれもその一人だ。
 その人への尊敬と信頼感に、恋愛感情が含まれていることを悟ったのは、かなり時間が経ってからだった。
 おれには彼女がいたし、その彼女と別れてからも、まさか自分が男を好きになるなんて、思ってもみなかったから。
 自分の感情がとても信じられなくて、何度も自問自答を繰り返したけれど…
 お前は、本当にあの人の事が好きなのか?
 キスしたいと思うのか?
 あの人に…抱かれたいのか?
 思いを告白する、ひいては今までの関係を壊す勇気があるのか?
 どれにも明確な答えは出てこなかった。
 おれは昔から…今でも…優柔不断でハッキリしない性格だ。
 さんざんに悩んだ末、その当時、親友だった同僚に思い切って相談した。
 そいつは、会社の同期で知り合った途端に仲良くなった。趣味が似ていたし、すごくイイ奴だったから。
 こんな事も相談できる、唯一無二の親友だった。
 そいつは、おれの告白を聞いて、ひどく驚いて、そしておれから目を逸らして言った。
「瀬川さん、付き合ってる人いるよ」
 そして、困ったような顔でおれを見て付け加える。
「その相手はつまり…僕なんだけどね」
 おれは結局、好きな人と親友と、それから職を一度に失った。
 仕事を辞める必要は無かったけれど、彼らと一緒に働くことは二人が好きなだけに苦痛だったし、何よりも気力が失せてしまって、おれは仕事を辞めると、貯金を頼りに旅に出た。
 それからずっと、定職には就かずにアルバイトや契約社員で資金を稼いではまた旅に出る。
 別に、旅がすごく好きなわけじゃない。
 特別、個性や特技があるわけじゃないくせに、普通や平凡はイヤだという、自分勝手なおれの丁度良いステイタスになるから続けている…のかもしれない。
 世界中を旅している、と言えば大抵の人は驚いたり、どこか尊敬の目を向けてくれたりしたし、正確ではないけれど、それらしく聞こえる英語も、役に立った。
 それに、定職に就かない理由にもなる。
「好きな時にふらりと旅に出たいから」こう言えば、二十八歳無職でも、それほど白い目で見られることはなかった。
 こんな生活を続けて、もう四年近くになる。
 四年間、特に何事もなく過ごしてきた。
 どこに行っても、人生が変わるわけでもなく、運命的な出来事が起こるわけでもない。
 一生続くような出逢いも無いし、生命の危険に晒されるようなトラブルもない。
 新しい旅に出るとき、おれはいつも少しの期待を抱いて旅立つ。
 今度こそ、何かが起こるかもしれない。
 いつもその期待は裏切られてきたから、最近は大きな期待を抱くことはなくなっていたけど…。
 今回は、何かが起こる気がする。
 知らない土地に日本人に偶然出会って世話になる、これ自体は特に珍しいことじゃない。
 仲岡が。
 仲岡は、今までおれが関わってきた人とは、どこか違う気がする。
 どこがとは言えないけれど。
 運命が、変わるかも知れない。
 途切れがちになる思考。
 おれはいつのまにか、眠りに落ちていた。
 
 短く浅い眠りの間中、よく分からない夢を見ていて、目覚めた途端におれはなんだか淋しくなった。
 寒いロシアにいた時も、よくこんな感情に襲われた。
 淋しい…というか、ぬくもりが欲しい…というか。
 こんな暑い国で、ぬくもりが欲しいも無いもんだが、要するに人恋しいって事だ。
 おれは、起きあがると、裸足のままリノリウムの床をぺたぺたと歩いて台所へ行った。
 蛇口を捻り、コップに水を汲んで飲む。
 ふと、テラスの方に目をやると、月の光に照らされた人影が見えた。
「…どうした?」
 おれの気配に気づいて、本を読んでいた仲岡が顔を上げる。
 澄んだ空気のせいか、満月の光はやけに明るくて、仲岡は灯りもなしに本を読んでいたようだ。
 おれは、なにも言わなかった。
「座れよ」
 言われるがまま、部屋の中からテラスへと出されていた二人がけのソファに座る。
 仲岡はテーブルの上に本を伏せて立ち上がると、グラスを手に戻ってきた。
 黙って出された透明なピンクの液体を、一口飲む。
 甘くてとろりとした酒だった。
 おれの隣に腰を下ろし、仲岡も同じものを飲んでいる。
 仲岡が何も喋らないので、おれは床にうっすらと伸びる椅子の影を見ていた。
「ヤス」
 呼ぶ声に顔を上げる。
 途端に、傾いた仲岡の顔が近づいてきて、おれの唇に口づけた。
 突然のことで、おれは身動きが取れなかった。
 ぎゅっと水滴に濡れたコップを握っていると、唇をぬるりと舌が這う。
「は…」
 細く息を吐いた隙に、舌がねじ込まれる。
「んぅ…っ」
 遅蒔きながら、抵抗しようと動かした手を、強い力で押さえつけられる。
 仲岡の舌は、おれの口腔を傍若無人に動き回り、おれは息苦しさに頭がくらくらした。
「はぁっ」
 ようやく離れた唇に、大きく息をついて、仲岡の顔を思い切り当惑した顔で見つめる。
「キスは久しぶりか?」
 にやりと笑い、仲岡が低い声で聞いてくる。
「どうしてこんなこと」
 質問には答えず、おれは唇を手の甲で拭って掠れた声で言った。
「あんたを抱きたいから」
 顔色ひとつ変えずに言われた言葉に、思わずごくりと唾を飲み込む。
「何で…」
 おれの手からコップをもぎ取り、氷が溶けて薄くなったピンク色の液体を、仲岡は喉を鳴らして飲み干した。
「あんたの乱れる顔がみたい」
 …おかしな奴だ。
 おれは正直、呆れた気持ちで仲岡の顔を見つめた。
「俺の身体の下で、あんたのそのうさんくさい笑顔の仮面を剥ぎ取って、思う存分泣かせたい」
 本当に、おかしな奴だ。
 仲岡の言葉は、おれの理解の範疇を越えていて、思わずぽかんとしてしまう。
「良いよ、別に」
 何でこんなことを言ってしまったのか分からない。
 後悔はしていないけれど。この言葉ひとつで、おれの人生は大きく変わることになった。


「男としたことは?」
 無造作にシャツを脱ぎ捨てながら、仲岡が言う。
「ない」
 ベッドの上に座り込みおれはぼんやりと仲岡を見ていた。
 さっき飲んだ甘い酒の酔いが回っているのか、頭がハッキリしない。
「お前も脱げ」
 服を着たままのおれをちらりと見て仲岡が言い、おれはのろのろと汗に湿ったTシャツと、短パンを脱いだ。
 ベッドを軋ませて、仲岡がおれに覆い被さってくる。
「あんまり俺は優しくないんだ」
 眼鏡を外した仲岡の顔を、じっと見つめる。
 どうしておれは、好きでもない奴…しかも男で、おれが受け身だ…とセックスしようとしてるんだ?
 頭のどこかは冷静に、この状況を判断しようとしていたけれど、もう手遅れだった。
 仲岡の手が顎を掴み、口づけてくる。
 それに抵抗することも、応えることもできなくて、おれはただされるがままになっていた。
「セックスは好きか?」
 おれの首筋に顔を埋め、仲岡が耳に囁く。
「好きでも嫌いでもない」
 正直に応えると、仲岡は押し殺すように喉で笑った。
「たぶん、好きになる」
 自信たっぷり、というか、どこか予言めいた口調で仲岡は言い…おれの身体に手と唇を這わせていった。


「は、はぁ、あ…っ」
 どのくらい時間が経ったのだろう。
 喘ぎまじりの自分の呼吸が、耳についてたまらない。
「もう少し、力を抜いてくれないか」
 ぐり、と身体の中に埋められた指を動かされ、おれは小さく息を呑んだ。
 仲岡の手淫にあっさりと吐き出した白濁を滑りに、仲岡の指は後腔へと埋められた。
 たかだか指一本なのに、呼吸さえ困難になるほど苦しい。
 仲岡は、いっぱいいっぱいなおれの様子を見てとると、微かに舌打ちをして(たしかに聞こえた)、半勃ちになったおれのモノを口に含んだ。
 白濁にまみれたままのソレに、ねっとりと舌を絡ませ、卑猥な音を立てて吸い上げる。
「う、うぅ…っ」
 おれは、上げた腕で顔の横のシーツを鷲掴んでいた。
 何かに縋っていないと、全てを持っていかれそうだ。
 仲岡の立てる濡れた音に混じって、何かの唸るような音が聞こえた。
「何…?」
 思わず呟いた声に、仲岡が顔を上げる。
「何だ?」
「何か、ヘンな音が…」
 おれの言葉に、仲岡が顔を巡らせる。
 その唇の、濡れて光るのがいやらしかった。
「あぁ、風だよ」
「風?」
「じきに雨も降る」
 さっきまで、月が出ていたのに…
「島の天気は変わりやすいんだ」
 仲岡は、説明するように言うと、再びおれの中心に顔を埋めた。
「はぁ、あ、ぁあっ」
 溢れ出したおれの先走りと、仲岡の唾液が混ざり合って後ろへと流れ、埋められた指の動きを滑らかにする。おれの後ろを、二本の指がくちゅくちゅと濡れた音を立てて出入りしている。
 窓の外では、雨が降り始めたようだった。
 ごぉっというまるで嵐のような音が響き、ガラス窓を雨が叩く。
 本当に、まるで嵐だ。
 苦痛も快感もごたまぜになって、おれの身体を包み込む。
「あぁ、あ…っ」
 仲岡の長く節くれ立った指で、身体の奥を突かれながら、おれは二度目の白濁を仲岡の口の中に放っていた。 それを残らず飲み下し、仲岡が身体を起こす。
 荒い息を吐くおれを見下ろす仲岡の目は、捕食者の目だった。
 いきなり身体が二つに折られたかと思うと、直後に凄まじい激痛が襲ってきた。
 あまりの事に声も出ない。
 ただ、目を見開いて身体を強張らせていると、仲岡は上からおれの顔を覗き込んで笑った。
「まだ泣くなよ」
 言いながら、ゆっくりと腰を動かす。
「ぐぅっ」
 思わずうめき声が漏れた。
 泣くなと言われても、あまりの苦痛にうっすらと涙目になってしまう。
「やりにくいな」
 ぼそりと一言呟き、仲岡がおれの中から引き出す。
 内臓ごと引きずり出されるかのような感覚に、ひっ、と詰まった悲鳴をあげて、おれは身体をわななかせた。
「おい。俯せてくれ」
 息も絶え絶えなおれに向かって、仲岡はけろりと言い、動けないおれの身体を強引に裏返す。
 おれの方が、少しだけ背は高いけれど、仲岡の方ががっちりとして体格がいい。
 仲岡は、汗に濡れたおれの身体をベッドの上で無理矢理四つに這わせると、再び後ろから突き入れてきた。
「ひあ、あぁっ」
 今度は、声が出た。
 とても身体を支えていられなくて、上半身がシーツに沈む。 
「お前はコッチを弄ってろ」
 シーツを掴み続けて強張った指を、無理矢理に引き剥がして、仲岡が半ば萎えたおれのモノを握らせる。
 動けないでいるおれの手に手を重ね、仲岡はおれのモノを愛撫した。
「ま、待っ…て」
 仲岡の容赦のない突き上げは、あまりに苦しかった。
 おれの必死の懇願をまるで無視して、仲岡はおれを犯し続ける。
 いつしかおれは、突き上げる腰の動きに合わせるかのように、手を動かしていた。
 さっきと同じように、苦痛と快感が混じり合って、おれをおかしくする。
 三度目の吐精は、さすがになかなか訪れなかった。
「あぁあっ」
 仲岡のモノが、再び引き抜かれる。
 苦痛ばかりだった先ほどとは違い、おれの後ろは犯すモノがなくなった途端に、物欲しげにひくついた。
「そろそろ、顔を見せて貰わないとな」
 おれの膝を大きく左右に割り、仲岡がべたついた手でおれの頬を撫でる。
「泣いてもいいぞ」
 おれの目の前に、いきり立った仲岡のモノが見せつけるように晒される。
 仲岡は、じっとおれの顔を見ながら、先端だけを中に埋め、小刻みに動かしてきた。
 張り出したカリの部分が、きつい入り口を引っかけるようにして出入りする。
「仲岡」
 絞り出した声に、仲岡は動きを止めた。
「苦しい」
「だろうね」
 軽く笑って、仲岡が一気に根元まで埋めてくる。
「あぁっ」
 おれは、仰け反ってその熱い塊を受け入れた。
「もっと、声出せ」
 天を仰ぐおれのモノを握り、仲岡が腰を突き上げる。
「んぁ、あ、あぁっ」
 おれは、言われるがまま、淫らな声を張り上げた。
 今やもう、犯されることの快楽は苦痛を凌駕している。
 今まで経験したことのないレベルの快感。
 狂いそうだ、と思えるくらいの。
 仲岡の身体の下で、おれは溺れた人のように藻掻き続けていた。
「あ、いゃ、う、ぁあっ」
 意味不明の言葉を呟き、ぶんぶんと首を振る。
「いい顔だ」
 どこか満足げな仲岡の声に、閉じていた目を開ける。
 途端に溢れ出した涙が、しとどに頬を濡らした。
「思った通り、いい顔で泣く」
 言葉と共に、張りつめた先端に、ぐりりと爪が立てられた。
「ひぁ、あぁあっ」
 悲鳴混じりの嬌声をあげて、白濁を溢れさせる。
 びくびくとのたうつ身体を押さえつけて、仲岡はおれの奥深くを抉るように突き上げた。
「うぅっ」
 低く呻くおれの身体の奥深くで、仲岡のモノが脈打つのが分かる。
 部屋の中は、おれと仲岡の荒い呼吸で満ちていた。
 いつの間に晴れたのか、窓から薄く朝の光が入り込んでいる。
 おれは空っぽになった気分で、天井を見上げていた。
 ベッドの上の、淫猥に湿った空気を蹴散らすかのように、低い音をたててファンが回っている。
 
 

第二章

 気が付いた時には、おれはベッドに一人だった。
 部屋の中は明るくて、エアコンが効いている。
 おれは目をこすり、昨日の事を思い出そうとした。
 続けざまに二度抱かれ、最後の方はもう記憶がない。
 仲岡は自分でも言っていた通り、優しくなかった。
 やめてくれ、許してくれ、もう限界だ。
 言葉の限りをつくしたおれの訴えは、ことごとく無視され、仲岡は自分の思うがまま、おれを蹂躙しつくした。
 身体を少し動かしただけで、身体の奥を中心に鈍痛が走り、一晩中、通常ではありえない格好ばかりさせられたせいで、ぎしぎしとそこらじゅうの関節が軋む。
 おれは起きあがるのを諦めて、ぐったりとシーツに身体を沈めた。
 ぼんやりと天井のファンを見上げる。
 からっぽな気分だった。いっそ、身体が軽く感じるくらい、からっぽの。
 ぐぅうと低く腹がなる。腹もからっぽだ。
 その時、仲岡がトレイを持ってあらわれた。
「おはよう」
「…はよう」
 声が出なくて驚いた。ようやく出たと思ったら、ひどい掠れ声だ。
「ゆうべは随分イイ声で啼いてたからな」
 にやりと笑う仲岡に、かっと顔に血が上る。
「腹減ったろ」
 仲岡は、無造作にベッドの上へトレイを置いた。
 小さなサンドイッチとフルーツ。熱いコーヒーと、コップになみなみ注がれたミルク。
 鼻腔をくすぐるいい匂いに、また小さく腹が鳴る。
 夢中で食べるおれを、仲岡はベッドの縁に座って見ていた。
「…どうして裸なんだよ」
 サンドイッチを食べ終わり、ようやく人心地ついてから、仲岡に向き直り、疑問に思っていたことを聞く。
 仲岡は、ボクサーパンツこそ履いていたが、他には何も身につけていなかった。
 おれだって全裸で飯を食ってるんだから人の事は言えないが、パンツ一枚で朝食を作る仲岡も変だ。
 おれの疑問に、仲岡は「はは」と声を出して笑った。
「どうせ脱ぐんだ。着てたってしょうがないだろ」
 さらりと言われた仲岡の言葉に、おれは戸惑って仲岡の顔を見た。
 どういう意味だ?
 まさか、こんな真っ昼間から、昨日の続きをしようと言うんだろうか?
 口には出さなかったが、仲岡には全て伝わったようだ。
「だから、お前もそのままでいい」
 唇の端を僅かにあげて笑いながら言う仲岡の目に、おれはごくりと唾を飲み込んだ。
 目は、ちっとも笑っていない。
 じっとおれを見つめる冷たいくせにねつい視線に、まるで実験動物にでもなったような気がする。
「フルーツは?食うだろ」
 皿の上のマンゴーを摘み上げ、仲岡が唇に押しつけてくる。
 おれは、仕方なしに口を開け、それを飲み下した。
「ほら、もっと」
 何かもよく分からない、鮮やかな色のカットフルーツは、甘酸っぱくてどれもうまかった。
 もっとゆっくり食いたかったのに、仲岡は次々と手づかみで、口に押し込んでくる。
 皿が空になるころには、口の周りはもちろん、胸元にまで果汁が散っていた。
「舐めて」
 最後に、べたべたになった指を、仲岡が口に突っ込んでくる。
 大人しくそれに舌を這わせると、仲岡は笑っておれの身体に唇を寄せた。
「こっちはオレが綺麗にしてやる」
 胸に垂れたジュースを、仲岡の舌がべろりと舐める。
 このまま、なしくずしに犯られそうで、おれは慌てて仲岡の指から口を離した。
「や、やめてくれ。もう、無理だ。体力が…」
 保ちそうにない。今だって、身体中みしみし言ってるし、後腔は熱をもったようにじんじんとしている。
 おれの訴えは、やっぱり聞き届けられなかった。
「良いよ。なるべくつきあってもらうつもりだけど、気絶したらしたで構わない。勝手に犯るから」
 正気か?
 本気で言ってるのか?
 聞くまでもなく、仲岡は正気で、本気だった。
 
 
 
 自分が淡泊な方だと思っていたのは、もう過去の話だ。
 この男と一緒にいると、おれは自分を見失う。
 いままで確立してきた自己を、こいつはあっさり突き崩す。
 おれの弱味を、コンプレックスを、いとも簡単にさらけ出させて、弱くなった心に、ぐいぐいと土足で踏み込んでくる。
 そして、おれはそれに逆らえない。
 土足であがりこんだ上に、暴君のように振る舞う男を、媚びへつらって出迎えた上に、這い蹲ってその腕を乞う。
「もっと舌使えよ」
 おれは言われるがまま、もたもたと舌を動かした。口の中で、仲岡のモノが一層大きさを増す。
 コレをはじめて口許につきつけられ、しゃぶれと命令された時、おれは顔を背けてイヤだと言った。
「お前はこれをしゃぶりたい筈だ」
 仲岡の言葉にあきれかえる。誰がそんなモノをしゃぶりたいと思うもんか。
 そう思ったのに。
「お前の中に入ってたんだぞ。コレがな」
 見せつけるように目の前に翳されたソレをあらためて見た途端、おれはそれから目が離せなくなっていた。
「欲しいだろ?」
 その傲慢な口振りに、頷く事はできなかったけれど。
 熱く張りつめた先端を無理矢理唇に押し込まれた時、おれはそれを大人しく受け入れていた。
「想像してみろ」
 仲岡が低く押し殺したような声で言う。
「コレがお前のやらしい場所に入ってくトコをな」
 言葉と共に、ぐっと口内に突き入れられる。
 おれは目を閉じて、口いっぱいに仲岡のモノを頬張った。
 無意識に、仲岡の言うとおり、コレが自分の体内に押し込まれた時の事を考えている。
 張り出したカリ首が、狭い場所を無理矢理に引き延ばして進入し、奥深く貫かれる。
 あの時の苦痛を、そして、それを上回る快感を。
 おれは仲岡をしゃぶりながら、反芻していた。 
 ゆるゆると出し入れを繰り返しながら、仲岡がおれの頬を撫でる。
 気持ち悪いくらい、優しい手つきで、頬を撫で、指先で耳の輪郭を辿る。
 背筋が、ぞわりとした。
 強張った舌に、自身を押しつけながら、仲岡の手がぐいとおれの顎を持ち上げる。
 その拍子に、おれの口から唾液にまみれたソレがぬるりと飛び出した。
「お前、ほんとにイヤらしい顔してるぞ」
 仲岡の言葉に、頬に血が昇る。
 この数日で、今まで言われたこともない事を、何度言われただろう。
 仲岡は、濡れた先端をおれの唇になすりつけながら、おれの目を覗き込むようにして言った。
「どこに出して欲しい?」
 一瞬、意味が分からなくてぽかんとしてしまう。
「このまま口に出してやろうか?それともまた突っ込んで欲しい?」
 答えるよりも先に、舌が出ていた。
 されるよりもするほうがいい。
 今まで一方的にイかされて、仲岡も一方的にイっていた。
 一度くらい、自分で仲岡をイかせてみたい、そう思った自分に自分で驚く。
 意志や感情はまるで無視して、道具みたいに使われることに、おれは今更ながら抵抗を覚えていた。
 無意識のうちに出た舌は、ぬるぬると唇を辿るように動いていたソレを追いかけるように絡みつく。
 仲岡は小さく鼻を鳴らすと、おれの頭を押さえつけ、ソレを喉奥深く突き入れた。
 えづくおれにまるで構わず、滅茶苦茶に口腔を犯す。
 ほどなくして、口中にどぶりと白濁が溢れかえった。
 なんともいえない匂いと味に思わず吐きそうになったが、おれはそれを飲み下した。
「イイ子だ」
 仲岡の満足げな声。肩を上下させているおれの頭を、大きな手が撫でる。
「お前は調教のしがいがあるな」
 目尻に滲んだ涙を指先で払い、仲岡は呟くように言った。
 その調教の成果なのかは知らないが、おれはいつしか抵抗無く仲岡のモノを口にできるようになっていた。
 抵抗無くどころか…
 丁寧に裏筋に舌を這わせながら思う。
 むしろ、嬉々として銜えているといってもいい。
 おれは、仲岡の足の間にはいつくばるようにして、熱心にそれをしゃぶっていた。
 もう、何度抱かれたか分からない。
 いまやもう、時間すら気にならなくなっていた。
 分かるのは、今が昼間だということだけ。
「上に乗れ」
 仲岡の手が、おれを引き剥がすように、肩を押した。
 口から抜け出ていくソレに、名残惜しげに舌を伸ばしながら、顔をあげる。
「物欲しそうな顔しやがって」
 おかしそうに笑って、仲岡が指でぐいと濡れたおれの唇を拭う。
「すぐに後ろにくれてやるよ」
 仲岡の腰をまたいだおれに、仲岡の手が伸ばされた。
 両手が尻を割り、指先が狭間に潜り込む。
 昨日から、嬲られ続けた後腔は、仲岡の長い指をやすやすと飲み込んだ。
 くちゅくちゅと微かに濡れた音を立て、仲岡が内部を掻き回すように指を動かす。
 おれの感じるポイントをわざと外して動く指に、自然と腰が揺らめいて、指をその場所へ導こうとしてしまう。
「あぁっ」
 指が引き抜かれた途端、おれは思わず声をあげていた。
 仲岡の手ががっしりとおれの腰を掴み、後腔の入り口に、熱い先端が触れる。
 宛われたソレに、後腔の入り口が、ひくひくと収縮した。
 仲岡は焦らすように、ほんの僅かに先端をめり込ませては離し、おれはもう我慢できなくて、「は、早く…してくれっ!」と掠れた声で訴えた。
「自分で挿れてみろ」
 みっともないおれの声に、仲岡が笑って腰を掴んでいた手を離す。
 急に支えを失って、おれは慌てて仲岡の引き締まった腹に手をつくと、そろそろと腰を下ろした。
 中途半端な姿勢で淫らに腰を振りながら、浅く喘ぐおれの胸を、仲岡がいやらしい手つきで撫で回す。
 ぷくりと勃ちあがった乳首を痛いほど摘まれて、おれは何度も首を振った。
「ちゃんと根元まで飲み込めよ」
 再び腰を掴まれ、一気に下まで引き下ろされると同時に、下からがつんと突き上げられる。
「うあぁっ」
 脳天まで響く衝撃に、一瞬視界がぐるりと回った。
 今までに無いほど奥まで仲岡のモノが届いている。
「ほら、動け」
 仲岡にぴしゃりと尻を叩かれて、おれは僅かに腰を持ち上げた。
 最奥に打ち込まれた楔が、動いた分だけずるりと抜け、ぞわりと背筋に快感が滲む。
「ヤス」
 名前を呼ばれて、おれは瞑っていた目を開けた。
 上から見下ろす仲岡は、いつもとどこか違って見える。
 出会ってまだ三日と少し。
 それなのに、おれは眼鏡を外した仲岡の目が、どんなに冷たく光るかを知っていた。
 薄く無精ひげに包まれた口許が皮肉げにゆがみ、薄い唇がおれを蔑む言葉を吐く。 そんな男に、いつの間にか囚われている。
 自分で自分が、分からなかった。
「動けよ」
 ぼんやりとしていると、小さく下から突き上げられた。
 慌てて、のろのろと腰を浮かせる。
 動けば動くほど、乗算で快感が増した。
「うぁっ、あっ、あぁっ」
 絶え間なく漏れる、小さな喘ぎ。
 これが自分の声だなんて、信じられないほど、それは甘く淫らに響く。
 おれは、自分の動きが自分にもたらす快楽にすっかり酔いしれていた。
 狂ったように腰を振り、仲岡のモノが感じる場所に当たるように、身体を捩らせる。 そんなおれを、仲岡はじっと見つめていた。
 その視線が、おれを一層高ぶらせていたのも事実だ。
「な、かおかっ」
 おれは、定まらない焦点をなんとか結んで、仲岡と視線を合わせた。
「ま、前。触って…」
 仲岡は、おれが自身に触れることを禁じ、おれは常に仲岡によってイかされていた。
 すでにおれのモノは、腹につきそうなほど反り返り、だらだらと絶え間なく蜜を溢れさせている。
 あと少し、仲岡が触れてくれさえすれば、一気にイけそうなのに、仲岡の手は髪や肩を撫で、脇腹や下腹部をまさぐるばかりで、肝心のモノには指先ひとつ触れてくれない。
「仲岡」
 身体を上下させながら、イきたい一心で仲岡を呼ぶ。
 仲岡は、目を細めると、指先を軽く先端に滑らせた。
 びりりと電気が走ったように、快感が突き抜ける。
「そろそろ後ろだけでイけるようになってみろ」
 窪みにぷくりと浮かんだ蜜を指先に掬い、言う仲岡に、おれは何度も首を振った。
「無理だ、無理…っ」
 もう、体力の限界が近かった。
 イけそうでイけない、ギリギリのところで味わう快感は、気持ちいいというよりむしろつらく、もう口を閉じることもできずに喘ぐおれの唇に、仲岡は先走りをなすりつけた。
「しょうがないな」
 ぼそりと呟かれた言葉と共に、仲岡が繋がったまま、強引に体位を変える。
「うぁあっ」
 身体の奥をぐるりと抉られて、おれは思わず絶叫した。
 衝撃に、中途半端に精液が漏れる。
 仲岡は、おれの足を抱え上げ、容赦なく二つ折りにした。
 ベッドにおれの身体を押さえ付け、仲岡が上から叩きつけるようにして突き入れてくる。
「あぁっ、あ、ぁああっ」
 仲岡の下で藻掻きながら、嵐のような快感に声をあげ、おれは仲岡の背中に縋った。
 身体の奥で仲岡のモノが膨れあがったかと思うと、熱い迸りが叩きつけられる。
 内から灼かれるような熱さに、おれは仰け反りながら全てを放っていた。
「やればできるじゃねえか」
 結局、仲岡の手に触れられることなくイったおれに、仲岡が言いながら笑う。
 繋がったまでいるせいで、身体の奥にまで響く仲岡の笑いを感じながら、おれはぷつりと意識を飛ばした。
   
 
「出掛けるけど、一緒に来るか?」
 次の日、仲岡の誘いに、おれは頷いて、ベッドから起きあがった。
 身体はまだだるかったけれど、いい加減ベッドの上にいるのも飽きた。
 シャワーを浴び、着替えて家を出る。
「鍵は?」
「いいよ、そんなの」
「平気なのか?」
「キングがいるからな」
 仲岡はそう言って、足元にまとわりつくキングの額を撫でたが、優しい目をしたこの犬が、番犬になるとは思えない。
「ウチには盗られるモンなんか無いけど、お前は心配なら貴重品持って出ろよ」
 たしかに万が一パスポートや航空券を盗られでもしたら大事だ。
 おれは、慌ててとってかえすと、貴重品の入ったかばんを取ってきた。
 海岸を通り、長い坂道を上って、道路に出る。道路の脇に、青い露草が咲いていた。
「Go home」
 見送るようにずっと後ろを付いてきたキングに仲岡は言い、キングは大人しく海岸へ帰っていく。
 仲岡が呼んで置いたタクシーがすぐにやってきて、おれ達は車に乗り込んだ。
「どこに行くんだ?」
「首都だよ。十五分も走れば着く」
 タクシーの運転手は髭面の陽気な親父で、びっくりするくらいスピードを出す上に、車間距離をこれっぽっちも取らないので、いつか追突するんじゃないかと、おれは冷や冷やしどおしだった。
 仲岡は慣れているのか、平気な顔で前を向いている。
「アレに乗っても良かったんだけどな」
 仲岡の指さす先を見ると、小さなバスに人が溢れんばかりに乗っていた。
「酸欠と匂いで、あっという間にクラクラになる」
「匂い?」
「体臭だよ。みんなやたらときつくてね」
 仲岡は微かに顔を顰めて言い、おれは仲岡がタクシーにしてくれた事に感謝した。
 ほどなくして着いた首都は、おれが想像していたよりもずっと都会だった。
 高層ではないものの、近代的で立派な建物が建ち並び、多くの人で賑わっている。
 道を行き交う大勢の人々。そのほとんどがアフリカ系だ。ものすごく痩せているか、太っているかのどちらかだった。。
 商店の前に、更にまるで出店のように、駄菓子やちょっとした日用品を並べた物売りがて、下校途中らしい制服姿の子ども達が、その前にたむろしていた。
「はぐれるなよ」
 久々の賑やかな雰囲気が楽しくて、そこら中をきょろきょろ眺めていたおれに、仲岡が声を掛ける。
 おれは慌てて仲岡の後をついて歩きながら、道路に行き交う中古らしい日本車ばかりの車の列や、交通整理をしている鮮やかなブルーの制服を着た警官を眺めていた。
 連れて行かれた先は、大きなスーパーマーケットで、仲岡は食料品の買い出しに来たらしい。
「ここが街で一番大きいスーパーなんだ。ここまで来ないと生鮮食品は手に入らない」
 仲岡は薄汚れた緑色のかごを持ちながら、おれに言った。
「食いたいもんがあったら、入れて良いぞ。この国で作ってんのはバナナくらいで、あとは全部アメリカからの輸入品だけどな」
 言われてそこらを眺めてみれば、売っている品は、どこかで見たことのあるような商品ばかりだった。
 野菜や肉、牛乳なんかをかごに入れて、ぶらぶらと歩いている仲岡から離れて、店をぐるりと一周する。
 外国のスーパーはどこも楽しいものだけれど、この国はそうでもなかった。
 値段は日本と変わらないし、珍しいものもない。
「欲しいものは無いのか?」
 おれの顔を見るなり、まるで親父のように聞いてくる仲岡に、なんとなく笑いながら、おれは首を振った。
「せっかく街まで出てきたんだ。夕飯を食って帰ろう」
 スーパーの袋を手にぶら下げ、仲岡がおれを振り返る。
 嬉しい提案に、おれは笑って頷いた。
 仲岡が連れて行ってくれたのは、街から少し外れた場所にある、静かなレストランだった。
 まだ、時間が早いせいもあって、客はまばらだ。
「外がいい」
 やってきたウェイターに仲岡は言い、オープンテラスのテーブルへおれ達は通された。
 Tシャツに短パン、サンダル履きの自分が少し恥ずかしくなるくらい、ちゃんとしたレストランで、おれは少し肩身が狭く感じたが、Tシャツにジーンズ履き、しかもスーパーの袋を持った仲岡は、まるで平気な顔をしていた。
「ここはまあ、マシな料理を出す方だから、好きなだけ食え」
 メニューを身ながら言う仲岡に、良く来るのか?と聞くと、滅多に来ない、と素っ気ない返事が返ってきた。
「一緒に来る奴もいないしな」
 そんなことを言われたら、なんと返して良いのか分からない。
おれは黙って、メニューに目を落とした。
 仲岡がポークソテー、おれは鶏のグリルを選び、仲岡が適当にサラダとパスタ、再度メニューを注文する。
 オーダーを済ませてしまうと、手持ちぶさたになってしまって、おれは広々とした庭をぼんやりと眺めていた。
 暮れなずむ空が、微妙にその色合いを変えていくのに見とれながら、仲岡の視線がじっと自分に注がれているのを感じる。
 なんとも言えない緊張感。
 それに耐えきれなくなったころ、ウェイターが飲み物を運んできた。
 よく冷えたジンジャーエール。
 ウエイターがうやうやしい手つきで、グラスにそれを注いでいる間に、おれは一つ息をついて、仲岡を正面から見つめた。
 おれの視線を受け止めて、仲岡がすっと目だけで笑う。
「乾杯しよう」
 思わずその笑顔にみとれたおれは、仲岡の言葉に慌ててグラスを持ち上げた。
「二人の出逢いに」
「…乾杯」
 意外な台詞に一瞬言葉がでなくなる。 
 小さくグラスをかち合わせ、おれは一気にグラスの半分ほどまで飲み干した。
 心臓が何故かどきどきして、やたらと喉が乾いている。
 グラスを置くなり、仲岡がすぐに継ぎ足してくれた。
 いつの間にかすっかり日が落ちて、あんなに暑かったのが嘘みたいに、涼しい風が吹き抜ける。
「綺麗だな」
 仲岡の声に庭をみると、植木につけられたささやかなイルミネーションが、暗闇に浮かんでいた。
「うん」
 日本の都会とはまるで違う、濃いたっぷりとした闇。
 ともすると、暗い海に浮かんでいるような気さえする。
 料理が来るまでの長い間、仲岡はいろいろ話をしてくれた。
 この国の歴史や文化、人々の生活についてまで、仲岡は話し上手で、おれはすっかり引き込まれて聞いていた。
 随分時間がかかったが、運ばれてきた料理はどれもうまかった。
 小さなタコの入ったサラダや、少しスパイシーな貝のクリーム煮を、仲岡が皿に取り分けてくれ、おれはそれを渡されるまま、存分に食べた。
「この国の人らは鶏が好きなんだ。そいつもうまいだろう?」
 どこか和風な味のする、甘辛いソースがかかった鶏は、柔らかくて旨かった。
「旨い」 
 頷くおれに、仲岡がすっと手を伸ばす。
「何?」
 頬に触れる手に、思わずびくりと身体を竦ませると、仲岡は笑って唇の端を指で拭った。
「ソースがついてる」
「…すまん」
 赤面するおれに見せつけるように、仲岡がぺろりと指を舐める。
 その何でもない仕草が…いや、仲岡はわざとしているのかもしれない…やけにいやらしくみえて、おれは慌てて目を逸らした。
 料理が運ばれてくるまでの時間よりも、食っている時間の方が短かったくらいだ。
 食い始めてからは、あまり会話をしなかったせいもあって、おれ達はあっという間に食事を終えるとレストランを出た。
「…ごちそうさま」
 割り勘にしよう、という提案はあっさり却下されて、おれは仕方なしに礼を言う。
 何から何まで仲岡の世話になりっぱなしだ。
「もう、帰りたい?」
 おれの顔を見ていう仲岡に、どうして?と聞き返す。
「いや、お前さえ良ければ、少し飲みに行こうかと思って」
 反対する理由などおれにはない。
「じゃ、行こう」
 仲岡は、先に立って歩き始めた。

 
 ごちゃごちゃと狭い通りを幾度も曲がってついた店は、小さくこじんまりとしていて、それなりに繁盛しているのか、客でいっぱいだった。
 入り口脇の丸テーブルを確保して、取り敢えずビールを頼む。
「オレ、ちょっと買い忘れたものがあるから、買ってくる。すぐ戻ってくるから、飲んでてくれ」
 立ち上がった仲岡に、おれは少し焦った。
 一人残されるのは、不安だった。けれど、そんなことを口に出せるほど、おれは素直なやつじゃない。
 結局何も言えないまま、店を出ていく仲岡の背中を見送る。
 目の前で閉まったドアに、あらためて店内を見渡すと、客は全員が男で、カウンターに凭れたり、テーブルについたりして、比較的静かに飲んでいた。
 奥でダーツに興じている男達もいる。
 落ち着かない気分で、小さな瓶のビールを飲んでいると、いきなり肩を叩かれた。
 飛びあがらんばかりに驚いて振り向くと、背の高い男が、にこにこと笑顔で立っていた。
「日本人か?」
 聞かれて頷く。
「ナカオカの友達なのか?」
 友達…じゃないけれど、じゃあ何なのかと聞かれると答えられないから、友達だということにしておく。
「俺もナカオカの友達だ。よろしくな」
 屈託のない笑顔で笑って、手を差し出してくる男に、おれは少しほっとして、その手を握り返した。
 近くのテーブルから椅子を引っ張ってきて、マイケルと名乗ったその男が、おれの隣に陣取る。
「ナカオカはどうしたんだ?」
「ちょっと買い物に行ってるんだ」
「そうか」
 久しぶりに話す英語は緊張した。
 この国の公用語は英語だが、一瞬英語には聞こえないほど、訛がきつい。
 こちらの言うことは、大抵分かって貰えるが、相手の言うことを聞き取るのは一苦労だ。
 マイケルも例に漏れず、独特のアクセントとイントネーションで早口に話すので、ちょっとした会話にも、おれは聞くのに苦労した。
「ナカオカのところに泊まってるのか?」
「貧乏だから、ホテルに泊まる金がなくて」
 おれがいうと、マイケルは日本人なのに?と笑った。
「ナカオカはいい奴だ。優しいから、子どもにも人気がある」
「子ども?」
「あぁ。学校で絵や何かを教えてるんだ。ボランティアで」
「…そうなんだ」
 知らなかった仲岡の一面に、少し驚く。
「ジェントルだし、ハンサムだから、女にももてる」
「そうなのか?あいつも俺と同じで、もてない奴かと思ってたのに」
 何故か声を潜めて言うマイケルの言葉に、冗談めかして返すと、マイケルは声をあげて笑った。
 おれも一緒になって笑ったが、胸の奥がちくちくしている。痛い、という訳じゃないけど、気になる棘がいくつも刺さっている感じ。
「あんたもいい男なのに、もてないのか?」
 マイケルは、笑いながらおれの肩を軽く抱いた。
「スマートだし、笑顔もキュートなのに。日本の女は見る目が無いんだな」
 触れあった部分から感じる、やけに高い体温。
 太い腕の重み。
 そして、鼻を穿つ匂い。
 あぁ、これが仲岡の言っていた体臭ってやつか。
 おれが考えていると、マイケルが耳に顔を寄せて囁いてきた。
「いつまでこの国に居るんだ?良かったら、ウチにも来ないか…?」
「遅くなった」
 その囁きに反応する間もなく、いきなり目の前に仲岡が現れた。
「ナカオカ」
「マイケル。久しぶり」
 お互いに笑いながら、握った拳をごつんとぶつける。
「仲良くなったみたいだな」
 仲岡が座りながら、おれとマイケルを交互に見る。
「あ、うん。話しかけてきてくれて」
 おれが日本語で言うと、仲岡は笑顔のままそうか、と言った。
 それから、しばらくの間、マイケルも交えて、英語で会話を交わした。
 マイケルは、事あるごとにおれの身体に触れてきたが、彼らにとっては普通の事なのだろうと気にもとめなかった。
「マイケルが気に入ったか?」
 マイケルが友達の所に戻る、といって席を離れるなり、仲岡は俺に向かって言ってきた。
「イイ奴だな」
 何の気なしに答えて、仲岡を見ると、仲岡は一瞬おれがたじろぐほど、冷たい目をしていた。
「良かったら抱いて貰えよ。あいつもお前が気に入ったみたいだ」
 吐き捨てるように言われた言葉に、はっきりと傷つく。
 何も言えないでいると、仲岡はビールを一口飲んで、再びおれに向かって言った。
「あいつらは底なしだからな。淫乱のお前でも、存分に楽しめると思うぜ」
 仲岡の声は大きかった。隣のテーブルの男が、振り返るくらい。
「ぶっといブツを、ブチ込まれたいんだろ?もう、後ろをひくつかせてんじゃないのか?なんなら今頼んでやろうか。犯してやってくれって」
 日本語での会話が、周りにいる男達に分かる筈もなかったが、それでもこんな大勢の人が周りにいる中、謂われない事で罵られるのはたまらなかった。
「お、おれは、そんなこと…」
 思ったよりショックを受けているのか、言葉がうまく喋れない。
 そんなおれに畳みかけるように、仲岡は言葉を続けた。
「よく言うよ。あんなもの欲しげな目つきで誘っておいて。無意識にやってんのか?それなら大したもんだ。さすが俺の調教したイヌなだけある」
 おれは、席を蹴るようにして立ち上がった。
 反動で、椅子がひっくり返るのにも構わず、店を飛び出す。
 道はまるで分からなかったが、おれは闇雲に走り出した。
 どうしてあんなこと言われなきゃならないんだ。
 怒りと悔しさと、自分でも名前のつけられない感情に支配されて、涙が出そうになる。
 なんとか大通りに出ると、おれはタクシーを拾った。
「南海岸まで」
 一言告げて、ぐったりとシートに身を預ける。
 何も考えたくなくて、おれはじっと目を閉じた。
 胸の奥が、破裂しそうに熱い。


 タクシーを降り、海岸に出ると、おれは砂浜に腰を下ろして静かな海を眺めた。
 このまま、仲岡の家に行き、荷物を全部持って、ホテルに移動することもできたが、そんなことをする気力もない。
 立てた膝に顎を乗せ、じっと下を向いていると、小さく一つ鳴き声がして、キングが走ってきた。
 嬉しげにじゃれついてくるキングに頬を緩めながら、温かなその額を撫でてやる。
「お前の飼い主は酷いな」
 ぺたんとおれのすぐ隣に伏せたキングの、焦げ茶の毛についた、砂を払うように撫でてやりながら、低い声で話しかける。
「おれのこと、イヌだってさ」
 ぱたぱたとしっぽを振って、キングが応える。
「お前と一緒だな」
 ぽつりと呟いた途端、キングが跳ね起きて走っていった。
落とした視界の端っこに、砂にまみれたビーサンのつま先が見える。
「悪かった」
 頭の上から聞こえた声に、おれは何も答えなかった。
 怒っていたわけじゃない。
 おれは、聞こえなかったふりを決め込んで、穏やかに凪いだ海を眺める。
「ヤス」
 少し困ったような声に、おれは黙ったまま斜め後ろに振り向いた。
 途端に唇に口づけが落とされる。
「ん…」
 中途半端な抵抗は、あっという間に流された。
 強い力で抱きしめられて、もう一度深く口付けられる。
 身体が、震えた。

 満月に近い月が出ていた。
 明るい夜空の下で、満天の星が淡く瞬いている。
 優しい波の音と重なるように、自分の押し殺した喘ぎ声が聞こえた。
 仲岡の首にしがみつくようにして、小さく腰を揺らめかせる。
 優しい手が、何度も何度も髪を撫で、首筋に幾度もキスが落とされた。
 まるで愛されてるみたいで、つらい。
 服の上から、胸先を摘まれて、おれは首を仰け反らせた。
 晒された喉元に食いつくように、仲岡がきつく口付けてくる。
「あっ」
 つきんと走る痛みになんだかほっとしながら、おれは小さく声を漏らした。
 寄せては返す波のリズムに合わせるように、仲岡がおれを揺らす。
 まるで、背後に広がる海に抱かれているような気分だった。
 時折大きな音と共にやってきた波が、足先を濡らす。
「あぁ」
 おれのモノも濡れていた。
 だらだらと溢れ出した蜜が、結合部分にまで伝わり、卑猥な音をたてる。
「ヤス」
 頬を撫でられて、顔をあげる。
 ようやく合った視線に、おれ達はしばらく黙ったまま見つめ合っていた。
 大きな両手で、おれの頬をそっと包み、仲岡が口付けてくる。
 そっと忍び込んでくる舌に、おれは夢中で吸い付いた。
 仲岡が好きだ。
 そんな思いが、急に胸に溢れてくる。
 おれは、仲岡にきつく抱きつくと、夢中で仲岡のキスに応えた。
 柔らかく下唇を吸い上げて、仲岡が唇を離す。
 切なげにきらめく瞳が、じっとおれを見つめていた。
 お前が好きだ。
 その目がそう語っているように見えたのは、おれの妄想だろうか。
 仲岡は、おれをぎゅっと抱きしめると、激しく下から突き上げてきた。
「あぁっ、あっ、な、かおかっ」
 気持ちがいい。
 信じられないくらいに。
 好きだと思う相手とするセックスは、快楽のレベルが違った。
「んぁ、あ、仲岡ぁっ」
 悲鳴のような声と共に、おれは全身を震わせて、思いの丈を放った。
「ヤス」
 びくびくと痙攣するように跳ねるおれの身体を抱きしめて、仲岡も迸りを溢れさせる。
 乱れた息のまま交わす、荒々しいまでの口づけに、おれの頬を涙が伝った。 




第三章

「何、したんだよ…っ」
「何って、クスリだよ」
 あっさりと言う仲岡に、青ざめて言葉を失う。
 おれは全裸でベッドの上。
 既に仲岡の手によって、吐精させられていて、下腹部は飛び散った白濁に濡れている。
 さんざん焦らされたすえ、ようやく射精を許されて、ぐったりとしていたおれの顔を、仲岡はいきなり布で覆った。
 鼻を衝くような甘ったるい刺激臭を思い切り吸い込み、一瞬でくらくらとくる。
 藻掻くおれに構わず、さんざん布を押しつけて、仲岡はようやくおれを解放すると、「キングが持っていくといけないから」、と手にした布を枕の下に押し込んだ。
 何をしたんだと、震えた声で聞くおれに、仲岡はあっさり「クスリ」だと答え、おれが顔色を失うと、違うよ、と首を振った。
「クスリといっても、あんたが心配するような、やばいドラッグじゃない。ま、アロマみたいなもんだよ」
 仲岡はさらりと言ったが、そのアロマみたいなもん、の効果はすぐに現れた。
 身体のあちこちが、熱い。
 口を閉じていることができなくて、おれはみっともなく口で息をしながら、仲岡の顔を見つめた。
「…なんだその目」
 横たわったおれにのし掛かるようにして、仲岡がおれを見下ろす。
「すげえやらしい顔してるぜ。物欲しげな目ぇして」
 つ、と仲岡の指が胸に触れた途端、おれはあられもない声をあげていた。
 ほんの僅か触れただけなのに、むき出しになった神経を逆撫でされたように感じる。
「誘ってるのか?」
 言われて初めて、おれは自分が足を開いていることに気が付いた。
 ゆるりと膝を立て、ついさっき放ったばかりとは思えない勢いでそそり立つソレを仲岡の眼前に晒す。
「熱い、んだ」
「だから?」
 からかうような声と冷たい視線に、心は冷えたが、身体は逆に燃え上がる。
「触って」
「どこを」
「どこでも、いい」
 声が震え、シーツを掴んでいた手が、無意識に仲岡へと伸びる。
 仲岡の手が、欲しかった。
 おれの指先が、仲岡に触れた途端、仲岡は逆におれの手を掴み上げ、両手まとめて頭上へと繋ぎ止めた。
「やめっ、な、かおかっ」
 かしゃんと金属音がして、冷たい輪が手首にかかる。
「何だよ、これ、とって…」
「たまには良いだろ」
 ベッドヘッドにくくられて、動きを封じられる。
「この国はえらくお堅くてね。街中じゃ、エロ本さえ売ってないんだ」
 おれを見下ろし、仲岡が唐突に言う。
「だけど、ちょっと裏へ入れば、そして場所さえ知ってたら、ちゃんと手に入れることができる」
 仲岡は、ベッドの脇に置かれた茶色の紙袋を、がさがさと漁った。
「たとえば、こんなモノでも」
 目の前に、卑猥そのものの形をした、道具が見せつけられる。
「舐めて」
 仲岡は、問答無用でソレをおれの口につきつけた。
 仲岡のモノなら、今や何の抵抗もなく口にできるというのに、何故かソレはしゃ
ぶる気になれなくて、口を閉ざしていると、仲岡は黙ったまま、いきなり乳首を捻り上げてきた。
「あぁああっ」
 悲鳴と共に身体が跳ね、開いた口にソレが無理矢理突っ込まれる。
「うぐっ、う…っ」
 大きさこそ、仲岡のモノと大して違わないものの、それはやっぱり物に過ぎず、おれの身体は拒否反応を示す。
「やだっ、や、めてくれっ」
 必死の抵抗も、仲岡には通用せず、おれ自身の唾液で濡れた物体が、後ろへと押し当てられた。
「嫌なのか?」
 ひたと狙いをつけながら、今更のように仲岡が言う。
「嫌だ。そんなの。やめてくれ」
 鳴き声まじりの声で言い、頼むから、と付け加える。
「お前のを、挿れてくれ」
「可愛いこと言うねえ」
 おれの言葉に、仲岡は鼻で笑った。
「でも、こいつが先だ。コレだって欲しいんだろ?お前のココは欲しがってる。コレを飲み込みたくて、ヒクヒクしてるじゃないか」
 その言葉が終わるやいなや、ソレはぶち込まれた。
 一気に根元まで突き入れられて、思わず悲鳴を漏らしてしまう。
 嬌声混じりの咆哮と共に、散った白濁が、胸にまで飛ぶ。   
 動けない身体。
 感じすぎて気がおかしくなりそうだ。
 身が持たないから、と仲岡は親切のつもりか、おれの前を戒め、そこはもはや苦痛を感じるだけの場所となった。
 仲岡の指が、唇が、舌が、自身が、触れた場所から、燃え上がり、溶けていく気がする。
「目を開けて」
 軽く頬をはたかれて、きつくつむっていた目を開く。
 仲岡の指先が、おれの涙をそっと拭う。
 ひどく優しいその手つきに、心が、震えた。
 触れられてもいないのに、勃ちあがりきったモノから、とろりと蜜が溢れ出す。
 それを指先で掬い取り、仲岡はおれの唇にぬめったそれをなすりつけた。
「オレので犯すまでもなく、コレで十分そうだな」
 おれを上から見下ろして、仲岡がおれの中に埋めたモノをぐりりと動かす。
「犯してくれるモノなら、何でもいいんだろ」
「うぁっ、あっ」
 無機質な道具に、感じる場所を抉られて、おれはのけぞりながら、足の指先を丸め、シーツを掴んだ。
 身体を動かす度に、繋がれたベッドと手錠の立てる、がしゃがしゃと耳障りな金属音が、部屋に響く。
「もぅ、許してくれ」
 おれは、仲岡を見上げ、懇願した。
 天を仰ぐ屹立から、溢れ出した先走りが、後腔にまで伝い、仲岡の手が道具を動かす度に、ぐちゅぐちゅと濡れた音を響かせる。
「許すって、何を」
 おれの頬に唇を寄せ、仲岡が囁いた。
「手を、外してくれ」
「それから?」
 唇の端に、軽いキスが落とされる。
「道具は、嫌だ」
「そう。それから?」
 仲岡の舌が、喘ぎっぱなしで乾いたおれの唇を舐める。
「前も、外して」
「イきたいの?」
 つい、と指先が裏筋を撫で上げる。
「…っ、あ、ぁっ」
 返事は声にならなくて、おれはただ、がくがくと首を振った。
「あとは?」
 ほとんど唇を触れ合わせるようにして聞いてくる仲岡に、おれは掠れた声で言った。
「あんたが、欲しい」
「…いいだろう」
 仲岡は、おれの要求を、一つずつ叶えてくれた。
 手錠を外し、赤く痕のついた手首をぺろりと舌で舐め、乱暴に埋めていた道具を抜き出した。
「ひぁっ」
 思わず漏らした嬌声は、次の瞬間絶叫に変わった。
 仲岡のモノに貫かれると同時に、前の戒めが解かれる。
 瞬時に襲ってきた快感は、一瞬意識が飛ぶほどだった。
 自分が放ったことにすら、気づかないほどの勢いで、仲岡に犯されて、おれは必死にその背中にしがみつく。
 汗ばんで熱い背中。
「あぁっ。な、かおかっ」
 愛している、と心の中で叫ぶ。
「ヤス」
 名前を呼ばれて、涙にけぶる視界の先、仲岡を捜す。
「仲岡」
 瞳に仲岡を映し、おれは声にならない声で唇を動かした。
「愛してる」
 仲岡が、指先でその唇に触れ、おれの顔を見下ろす。
「愛してる」
 今度は声が出た。
 その言葉を飲み込むように、口付けられる。
 激しい口づけに、おれは身体を震わせながらまた達した。
 クスリの影響か、感じすぎる身体には、キスさえ犯される快感を伴う。
「愛してる」
 全てはクスリのせいにして、声を限りに叫び、縋る。
 仲岡は、何も言わなかった。  
 

 ゆっくりと波に押されるように目が覚めた。
 この上なく幸せな夢を見ていた気がする。
 荒れ狂った嵐のような情事の後、気を失うようにして眠りに落ちた。
 おれはゆっくりとまばたきすると、既に見慣れたものとなった天井をぼんやりと見上げた。
 回るファンを見つめて、大きく深呼吸する。
 その時、おれは仲岡の腕が自分の上にのっかっていることに気が付いた。
 おれの呼吸と一緒になって、上下する重い腕。
 そっとそれに触れると、小さく仲岡が呻いた。
 ゆっくりと頭を巡らすと、横で仲岡が眠っていた。
 その寝息は深く健やかで、おれは細心の注意を払って、腕をどかすと、身体をよじって仲岡の顔をじっくりと見つめた。
 思えば、今まで一緒にいて、寝顔を見るのははじめてだ。
 おれはまるで知らない人と対峙するような気持ちで、それを眺めた。 
 こうして見ると、たしかに年下に見える。
 普段の仲岡は、時として三十過ぎに見えることもある。
 目のせいだ。
 おれは出会った時から、この男と目を合わせる度、何度も思った。
 なんて暗い光なんだ。
 付き合い始めてすぐ、この男の暗さには気が付いた。
 そのどこか倦み疲れたような雰囲気も、時々洩れる言葉の端々も、たしかに暗かったが、この目ほどじゃない。
 なにか…それが何かは分からないが、何かに対して後ろめたい、後ろ暗いところがある、そんな目をしている。
 …その目が見えないから、今の仲岡は年相応の青年に見える。
 いつの間にか、手を伸ばしていた。
 そっと頬に触れ、髭を撫でるようにして、薄く開いた唇にも触れる。
 胸が、痛かった。苦しくて、手をひっこめる。
 いつのまにか、こんなにもこの男の事を好きになってしまった自分に気が付いて、あらためておれはうろたえた。
 仲岡の寝顔から逃げるように起き上がり、ベッドをおりる。
 床に落ちた衣服を拾い上げながら、おれは寝室を出た。
 部屋を出る時、思わず後ろを振り返る。
 規則正しく聞こえる寝息。
 仲岡は眠っていた。
 穏やかに。一人で。


 くしゃくしゃになった服を着て、家の外へ出た。
 まだ、夜明け前だ。
 空の端がほのかに白みはじめ、星々が最期とばかりに輝きを増す。
 吹き抜ける潮風に、おれは思わず目を細めた。
 どこにいても、どんな気分の時でも、早朝はいいものだ。
 澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、ため息と共に全て吐き出した。
 裸足のまま、階段を下りて海岸へ行く。
 波打ち際を歩きながら、おれは静かに自分と向かい合っていた。
 冷たい海が足を浸し、引きずり込もうとするかのように、足裏の砂を引っ張っていく。
 慎重に自分の心に探りを入れる。
 うかつにメスを入れれば、はりさけてしまいそうだった。
 ただでさえ、もうあちこち傷つき綻びている。
 いっそのこと、かっさばいてしまえば楽かもしれないが、おれにはその勇気が出なかった。
 仲岡の事を考えると、気分が暗澹とした。
 どうして好きになってしまったんだろう。
 泣きたい気持ちでそう思う。
 帰国は今夜に迫っていたが、それが泣きたい理由ではない。
 泣きたい理由は、仲岡自身にあった。
 仲岡が、自分を好きになるとは思えなかった。
 あの目が語る。
 おれは誰も愛さない。
 終わりのない思考。寄せては返す波。時に強く、そして弱く、押し寄せてはまた引いていく。
 小さな鳴き声に、顔をあげるとキングがいた。
 たったっとやってきて、おれの手をぺろりと舐める。
 おれは身を屈めると、その小さな頭を撫でてやった。
「きっと、お前の方が仲岡のことをよく知ってるよな」
 彼に関しておれが知ってることといえば、仲岡達也という名前と、年齢は二十六だということ、生業は陶芸で、ボランティアで子どもに絵やなんかを教えている…と他愛のないことばかりで、肝心なことは何一つ知らなかった。
 お互いをよく知る前に、その身体を繋ぎ、言葉を交わすより、ただ唇を重ねた。 
 それについて、後悔などしていないけれど…今になって彼のことをもっとよく知りたいと心から思う。
 何故、一人でこの小さな島国…日本人は一人もいない…に暮らしているのか。
 あの、暗いひとみの理由は。
 過去に、何があったのだろうか。
「お前は知ってるのか?」
 かりかりと耳の後ろをかいてやると、キングは嬉しげに目を細めた。
 いつの間にか、夜が明けていた。
 空気がみるみる熱を帯び、じっとりと肌にまとわりつく。
「行こう」
 おれはキングに声をかけ、歩き出した。
 何も答えはでていない。
 ただ、仲岡に無性に会いたくて、おれは砂浜を走り出す。
 突然、キングが大きく吠え、一目散におれを追い抜いていった。
 はっと顔をあげると、木々の向こうに立ち上る煙が見える。
 仲岡の家からだ。
 もうもうと白い煙があがっている。
 おれは息を呑むと、全速力で駆け出した。
 仲岡、仲岡!
 心の中で声の限りに彼を呼ぶ。
 階段を二段飛ばしでかけあがり、息を切らして照らすにたどりつくと、しゃがんだ仲岡の背中が見えた。
「…どうした。血相かえて」
 振り返り、驚いたように仲岡が言う。
 おれは安堵に全身の力が抜けてしまって、思わず地面にへたりこんだ。
「おい、大丈夫か」
 仲岡があきれたように言いながら、おれに手を差し伸べる。
「火事、かと思って」
 その手を握り、引き起こして貰いながら、おれは荒い息のまま言った。
「は?あ、あぁ。この煙か」
 たき火を振り返り、仲岡が苦笑する。
「悪かったな。びっくりさせて」
「…無事で、良かった」
 おれは手を伸ばすと、仲岡の首に抱きついて言った。
 仲岡はそんなおれの背中を軽くぽんぽんと叩き、ゆっくりとおれを引き離す。
 その時、仲岡が微かに漏らしたため息は、おれの心を凍てつかせるのに十分だった。
 おれの顔をまっすぐ見つめ、「迷惑なんだ」と目だけで語る。
 泣きたい気持ちでそれを受け止め、おれは顔だけで笑って、仲岡を見つめ返した。
「何を焼いてるんだ?」
「お前のパスポート」
「…え?」
 さらりと言われた言葉に、耳を疑う。
 目を見開いて仲岡を見ると、仲岡はたき火を指しながら言った。
「航空券や荷物もな」
 半ば呆然としたまま、仲岡の後ろの炎を見れば、たしかにパスポートらしきものが燃えているのが見える。
 この時の気持ちは、なんていったらいいのか分からない。
 驚愕、怒り、狼狽、焦燥、期待、安堵、名前の付けられない感情にあまりに一気に襲われて、おれはほとんどパニックになりながら、何も言葉にできずに、ただ口をぱくぱくさせていた。
「…冗談だよ」
 そんなおれを見て、仲岡が笑っていった。
「そんなこと、するわけないだろう」
「じゃ、じゃあ、あれは…」
「あれはおれのだ」
「自分のパスポート、焼いたのか?」
「おれのじゃない」
 訳が分からない。
 噛み合わない会話に完全に混乱する。
 仲岡はおれにくるりと背を向けてると、再びしゃがみこみ、木の枝でたき火をつついた。
 がさ、と音を立てて炎が崩れる。
 よろよろと火の側に近寄ると、そこにはたしかにもはや炭になりかけたパスポートが燃えていた。
 手紙の束のようなもの、衣服のようなもの、いろいろなものが炎の下、間断なく黒く踊り、のたうち回って挙げ句、静かに灰へと変わっていく。
 おれはじっとそれを見つめていた。
 火は熱く、側にしゃがんだ仲岡の顎からは、汗が滴っていた。
 たき火が燃え尽きてしまうまで、黙って二人で火を見守る。
 おれのこころも、いつしか静かに落ち着いていた。
「…仲岡」
 木の枝でがさがさと灰を掻き回している仲岡に、声をかける。
「なんだ」
「おれ、あんたを好きでもいいか」
 我ながら、何て台詞だと思ったが、仲岡は低く笑って立ち上がった。
「あぁ」
 笑って木の枝を放ると、おれを抱き寄せ、きつく抱きしめる。
「いいよ」
 おれの肩に顔を埋め、仲岡は呟くように言った。
「いい」
 おれは、仲岡の体重を受け止めながら、その髪を手のひらで撫でた。
 仲岡が放った枝をくわえあげ、キングが嬉しげに、抱き合ったままの俺達の周りを走り回っている。



 空港へは、タクシーで行った。
 ここでいい、と玄関で別れようとしたけれど、仲岡は無言でおれのトランクを持ち、タクシーに乗り込んでしまう。
 車中で、おれたちは無言だった。
 ラジオからどこかで聞いたことのある音楽が流れ、運転手が陽気に身体を揺らしている。
 夜道はまっくらだ。
 どこを走っているのかも分からぬ内に、空港に着いてしまった。
 タクシーの料金も仲岡が払い、帰るのはおれだというのに、仲岡が先に立って歩き出す。
 空港は、来たときと同じく、閑散としていた。
 やる気のない売店…唯一の免税店…はとっくに店じまいしていて、これが一国の空港なのかと疑いたくなるほどの侘びしさだ。
 ひとつしかないチェックインカウンターの前で、仲岡はどすんとトランクを置くと、おれを振り返った。
「じゃあ、ここで」
 まるでポーターのような素っ気なさだ。
 おれは苦笑すると、旅の恥はかきすてとばかりに、仲岡の首に腕を回した。
「愛してる」
 どこか暗さのやわらいだ瞳を覗き込み、はっきりと口にする。
 仲岡が何か言う前に、おれはその唇を塞いだ。
 しぶしぶ、と言った様子で仲岡がそれに応える。
 いつしか、キスの主導権は仲岡に移っていて、唇が離れる頃には、おれは肩で息をしていた。
「続きはまたな」
 ぼそりと言われた台詞に心から嬉しくなる。
「ああ、またな」
 名残惜しげに身体を離すと、仲岡がすっと手を出した。
 あぁ、出会った時もこうやって、この男の手を握った。
 たった十日前の事なのに、ひどく昔のことに思える。
 おれは、感傷的になりながら、仲岡の手を握った。
「…ん?」
 手の中に、何かがある。
 仲岡は、おれの手にそれを押しつけるようにして、手を離した。
「餞別だ」
 手の中に残されたのは、手作りらしいブレスレット。
「ありがとう」
おれはぎゅっとそれを手に握ると、空いた手でかばんを持ち上げた。
「仲岡」
 さよならは言いたくなくて、ただ名前を呼ぶ。
 仲岡は分かってる、といわんばかりに笑みを見せると、早くいけ、と手と目で示した。
 頷いて、最後にもう一度、その姿を目にやきつける。
 くるりと振り向き歩き出すと、背中に声が聞こえた。
「手紙出すよ」
 住所なんて知らないくせに。
 この男らしくない台詞に思わず肩を揺らしながら、振り返らずにいる。
 手紙なら、おれから出すよ。
 住所は知らないけど、南海岸白いテラス付き一軒家在住、うさんくさい日本人、これで十分届くだろう。
 運命が、変わるかもしれない。
 仲岡と出会った時、直感でそう思った。
 たしかに、変わった気がする。
 こんなにも幸せで、こんなにも淋しい旅の終わりを、おれは知らない。
 そして、この終わりは始まりに続いてる。
 
    ◆おわり◆