「明日、どこかに行こうか」
ぽつり、と言われた言葉に、律は皿を拭く手を止めて、
片瀬の顔をじっと見つめた。
ざあざあと水音をたてて、洗い物をしている片瀬は、じっと
手元に目を落としている。
・・・幻聴だったのかな?
片瀬が何も言わないので、律が自分の耳を疑いかけた時、
片瀬が律に茶碗を渡しながら、小さく言った。
「この間、どこかに行きたいって、言ってなかったか?」
窺うように、律の目を見る。
幻聴じゃ無かった!
律は安堵の笑みを漏らすと、片瀬の目を見つめ返した。
「どこへ、連れて行ってくれるんですか?」
茶碗を拭きながら、片瀬の顔をのぞき込む。
片瀬は水道を止めると、少し困った顔をして、律の顔を
見返した。
「お前は、どこに行きたいんだ?」
どこに・・・行きたいだろう?
いざ聞かれると、答えられない。
律は最後の小皿を拭き終えると、濡れた布巾を持ったまま、
宙を見つめて考えた。
今まで、片瀬と出かけた事は、一度も無い。
スーパーへの買い物すら、一緒に行ったことがない。
二人で連れ立って、どこかへ行くなんて・・・。
夢みたいで、どきどきする。
「もうちょっと、考えてみても良いですか?」
せっかくの一緒に出かけるチャンスだから、目的地は慎重に
決めたくて、律は片瀬の顔を見上げて聞いた。
「ん・・・」
律の手から取り上げた布巾をタオルハンガーに掛けながら、
片瀬が曖昧な返事を漏らして頷く。
律は片瀬の無表情な横顔を見上げながら、どきどきする胸を
押さえた。
一体、どこへ行ったら良いだろう?洗い物を済ませて、律はテーブルで勉強を、片瀬はパソコンに
向かって仕事をした。
律が片瀬にお願いして・・・、そして、片瀬が同じ事を考えていた
こともあって、以前は寝室にあったパソコンが、今はリビングへと
移されている。
律は、顔をあげればすぐ片瀬の背中を見ることができたし、
片瀬は、振り向けばすぐ律の俯いた横顔を見ることができた。
宿題をやり終えた律は、片瀬の背中をそっと見上げて、明日の事
を考えた。
29日、緑の日。
GW真っ最中。
きっと、どこも恐ろしく混んでるんだろうな・・・。
好きな人は居ないだろうが、律もやっぱり人混みは苦手で、
そのことを考えると、少し気分が重くなる。
片瀬にしたって・・・人混みが平気というよりは、苦手に見える。
もしかして、僕がどこかに行きたいって言ったから、無理をして
るんじゃ無いのかなあ・・・。
律は心配になって、少し猫背の片瀬の背中をじっと見つめた。
でも、無理をしてまで自分を誘ってくれたのだとしたら、その誘い
に乗らないのも、悪い気がするし・・・。
律はうだうだと悩んで、考えを巡らせた。
「律」
呼ばれてはっと我に返る。
顔をあげると、片瀬が椅子ごとこちらを向いていた。
「もう、遅いから・・・」
片瀬に云われて時計を見上げると、時計の針は10時半を指して
いた。
「お風呂、入ってきます」
片瀬の言葉を引き継ぐと、律は頷いて立ち上がった。
お風呂から出て、パジャマ姿で出てくると、片瀬はまだパソコンに
向かっていた。
「先生」
側まで行って、声を掛ける。
片瀬は顔をあげると、上気した律の頬へと手を伸ばした。
「もう少し、仕事するから、先に寝て」
しっとりとした頬に指を這わせると、律がくすぐったげに首を竦めた。
「おやすみなさい」
身体を屈めた律が、そっと片瀬の頬に口づける。
片瀬は黙って抱き寄せると、しっとりと湿った律の髪に口づけを
返した。
「おやすみ」
律がはにかむように笑って、寝室へと向かう。
片瀬はその背に声を掛けた。
「そういえば、行きたい場所は決まったか?」
気になっていた事を訊ねる。
「つつじを・・・見に行きたいです。東山へ」
律はお風呂に入っている間に、決めた目的地を告げた。
今朝の新聞に、東山のつつじが満開だと載っていた。
ここからなら、電車で20分ほどだし、ちょっとしたお出かけには
もってこいだ。
片瀬は律の言葉を聞いて、小さく頷いた。
「分かった。おやすみ」
ほんの僅かに笑みを浮かべた片瀬の顔を見つめて、もう一度
おやすみなさいと頭を下げる。
小さく音を立てて締まったドアを、片瀬はしばらく眺めていた。
・・・・出掛ける時って、何を持っていくものなんだろう?
記憶にある限り、”お出かけ”というものをしたことが無い片瀬は、
少し困って、溜息を吐いた。
やっぱり・・・あれは必要だろうか?
片瀬はもう一度溜息を吐くと、パソコンを消して立ち上がった。
ピピピピ、ピピピピ、という規則正しい電子音で目が醒める。
律は手を伸ばして、目覚ましを止めた。
小さな目覚ましを手に取って、時間を見る。
7時半。
随分早くにセットしてあるんだな・・・、と少し不思議に思う。
片瀬は普段、休日に目覚ましをセットしない。
自然に目が醒めるまで、眠っているのが普通なのに、今日は
どうしたんだろう?と、一瞬思って、すぐに理由に思い当たる。
今日はお出かけするから・・・こんな早くに?
律は時計を持ったまま、隣で穏やかに寝息をたてる片瀬の顔を
じっと見つめた。
寝ている片瀬を起こすのは、気が引ける。
でも、目覚ましをセットしていたのだから、この時間に起きるつもり
だったのだろう。
起こさないのも、悪い気がする。
時計を手に持ったまま、うだうだと悩んでいると、ふと、ある音が
聞こえてきた。
もしかして・・・・。
音を立ててカーテンを開ける。
うす暗く曇った空から、静かに雨が降っていた。
・・・・・・・・雨降りかあ・・・・
がっかりして、ベッドに倒れ込む。
せっかくのお出かけに、雨降りはいただけない。
律はもぞもぞと片瀬にすり寄った。
片瀬を起こすのを止して、もう一度布団をかぶり直す。
お出かけも良いけど、こっちも幸せだなあ。
いつものように、片瀬の胸に耳を押し当てて、心臓の音を聞く。
とくん、とくん・・・・
心臓の音を聞いていると、とろりと瞼が落ちてくる。
律は片瀬に寄り添って、ゆっくりと目を瞑った。
「律」
声と共に揺り起こされて、律は慌てて目を開けた。
「あ、おはようございます」
目の前の片瀬に、半ば寝ぼけながら挨拶する。
「雨、降ってるな・・・」
片瀬は窓の外を見て、ぽつりと云った。
律が見た時は霧雨のようだった雨が、今は土砂降りになっている。
片瀬は困ったような顔をして、律の顔を見つめた。
「つつじは・・・どうする?」
・・・・いくらなんでも、この土砂降りじゃあつつじを楽しむどころじゃ
無い。
律は小さく首を振った。
「残念だけど・・・また、今度に・・」
「そうか・・・」
片瀬が小さく息を吐く。
その様子が本当にがっかりしているようで、律は少し意外だった。
片瀬が自分に気を使って、したくもないお出かけを提案しているの
だと思っていたけど・・・。
律はじっと片瀬を見つめた。
先生も、僕と出掛けたいと、思っていてくれたのかな?
こう思うと、胸がほわんと暖かくなる。
律はそっと腕を伸ばして、片瀬の首に抱きついた。
「ん・・・」
律はうっとりと目を閉じて喉を反らした。
緩慢に自分の中を出入りする片瀬の熱さに、
自分の身体がとろとろと溶けていくような感じさえする。
反らされた律の喉に、片瀬の唇が落とされる。
痕を付けない程度に、軽く吸い上げながら、徐々に唇が下へと
落ちていく。
鎖骨をすっと舌で辿り、その下をきつめに吸い上げる。
「あっ!」
ぴくんと律の身体が跳ね、小さな声が漏れる。
片瀬は顔をあげて、そっと律の頬を撫でた。
「先生・・・」
熱に潤んだ律の瞳が、まっすぐに片瀬をとらえる。
片瀬はそっと律の唇に口づけて、律の目を閉じさせた。
未だに、あのひたむきな目で見つめられるとうろたえてしまう。
自分が、あの目に応えられるような人間かどうか、自信が無い。
片瀬が考え込んでいると、きゅっと律の白い足が、片瀬の腰を
引き寄せた。
穏やか過ぎる片瀬の動きに焦れた律が自分から小さく腰を揺らし
はじめる。
「先生・・・」
手を伸ばして、片瀬の首にしがみつき耳元に熱く囁く。
自分の中の片瀬が、ぐっと容積を増すのが分かった。
「先生」
もう一度、片瀬を呼ぶ。
舌たるく甘い律の声に、片瀬はぐっと律の足を抱え上げ、きつく
腰を打ち付けた。
「あぁっ!」
いきなりの激しい動きに、律の背がきつく反る。
抱え上げた足を肩に担ぎ、角度を変えて内部を抉る。
「いっ・・ぁああっ!!」
ぐいっとポイントを抉られて、律は震えながら白濁を放った。
吐精の快感にひくひくと蠢く後ろに誘われるように、片瀬が一層
激しく腰を使う。
「んあっ、あっ、あっ、あぁ・・・っ」
絶え間なく嬌声を漏らしてしがみつく律を、きつく抱きしめると、
片瀬は一層奥へと自身を沈める。
「りつ」
聞き取れない程の声で囁いて、片瀬が律の奥へと放った。
けだるげに両手を頭の下に組んで天井を見上げる片瀬に、まだ
火照ったままの身体を擦り寄せる。
胸に頬を押し当てて片瀬の顔を見上げると、片瀬は僅かに目を
細めて、律の身体を抱き寄せた。
二人で身体を寄せ合って、穏やかな雨の音を聞く。
髪を撫でてくれる手が気持ちよくて、律はうっとりと目を閉じた。
お昼まであと少し。
片瀬はうとうとと微睡む律を見下ろして、キッチンのテーブルの
上に置いてあるお弁当の事を考えた。
昨日の夜、慌てて作ったお弁当だけど、出掛けないとなると、
なんだか妙に気恥ずかしい。
律が目を覚ます前に、隠そうか隠すまいか・・・
片瀬は、天井を見上げて思案に暮れた。
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