インターホンを鳴らして、ドアを開ける。
自分がいない時には鍵かチェーンをかけておくよう言ってあるのに、セイはそのどちらもよく忘れる。
いつ帰ってきても掃除の行き届いた玄関には、砂埃ひとつ落ちてない。
下駄箱の上には、小さな花。
セイがマンションの駐車場の脇にあるちゃちなのっぱらから摘んできたヤツだ。
花瓶代わりに使っているのは、調味料かなんかの空き瓶だけれど、ぴかぴか光る透明のガラスに生けられた花は、けっこう綺麗で、俺は目を細めた。
「お帰りなさい」
明るい声と共に、セイが出てきて、俺の前でさっとしゃがむと、深々と頭を下げる。
帰るなり、三つ指ついて迎えられて、俺はその場で固まった。
「た、ただいま…」
取り敢えず、そう言うしかない。
あたふたとしていると、セイはそんな俺を見上げて、にっこりと笑った。
「夕飯食う?風呂入る?それともオレに?」
なんだその台詞は!?
冗談だろうと思ったが、笑顔のセイは至って普通モードだ。
「…ふ、風呂で」
動揺しつつもそう答えると、セイが素直に頷く。
「ハイ」
立ち上がったセイは、オレの手からバッグをもぎ取ると、先に立って歩き出した。
「着替えはもう置いてあるから。お湯は少し熱めだから気を付けてな」
いつも通りに戻ったセイに、ほっとしつつも、釈然としない気持ちで、風呂に入る。
風呂場は相変わらずぴかぴかだ。無くなりかけていたボディソープはちゃんと補充されてるし、湯船のお湯は俺好みの熱めで、気に入っている白い濁り湯。
「…幸せだなあ」
肩までお湯に浸かりながら、思わず呟いてしまう。
今日の夕飯は何だろう。
思った途端に急に腹が減ってきて、俺はざばりと風呂からあがった。
「いいお湯だったか?」
「うん」
台所から声を掛けてくるセイに返事をしつつ、テーブルの上の新聞を手に取る。
「ビールは?」
「飲む」
立ち上がったまま、テレビ欄の下の週間天気予報を見ていた俺は、顔を上げずに返事をした。
明日からしばらくは晴れが続くことを確認してから、新聞を畳み、ビールを取りに行く。
「これ。つまみに」
「ん」
ビールと枝豆が乗ったトレイを手渡してくるセイを見た途端、俺はまた固まった。
「…何だそれ」
「それって何?」
きょとんとして聞き返してくるセイに、それ!と着ているエプロンを指さす。
「エプロンだけど」
「そりゃ見れば分かるけど…」
俺の記憶にある限り、セイがエプロン姿を見るのは初めてだ。
だって、俺んちにはエプロンなんて無かったし。
「買ったんだ。似合う?」
小首を傾げて言うセイに、曖昧に頷く。
正直に言って、すごく似合うとは言いづらかった。
色こそ淡い水色で、それはセイに似合っていたけど、薄く透けるような素材に、ひらひらとたくさんのフリルやレースがついたデザインは、ちょっと似合わない。
というか、どうしてこんなの買ったんだ??
普段の実用本位なセイからは、考えられない買い物だ。
俺は、ぐびりと一口ビールを飲むと、カウンターに凭れてセイの後ろ姿…紐が大きくリボン結びしてある…に話しかけた。
「どうしてエプロンなんか買ったんだ?」
今までしてなかったのに。
そう聞くと、セイはくるりと振り返った。
ふわりとフリルのたくさんついた裾が揺れて、ちょっとドキリとする。
「アイテムとして、必要かなと思って」
「そりゃまあ、あった方が便利だろうけど…」
料理をすれば、油が跳ねたりすることもあるだろうし。
俺の言葉に、セイは笑って首を振った。
「家事をするアイテムって意味じゃないぞ」
「んじゃ、何の?」
「新婚ごっこ」
「ハァ?」
思いがけない言葉に、間抜けな声を出してしまう。
セイはすごい勢いできゃべつを千切りにしながら、口を開いた。
「今日、テレビで”新婚さん特集”みたいな番組やっててさ。それ見てフト思ったわけ。そーいえば、オレが居る限り、チカは新婚さん気分なんて味わえないんだなあって」
「……」
セイは時々突拍子もない事を言いだして、俺を困らせる。
「新婚ねぇ」
ハァ、と小さくため息をついて呟くと、セイが顔を上げて言った。
「もう出来たから、座って待ってて」
ま、言われてみれば今のこの状態って新婚ぽいよな。
座ってビールを注ぎながら考える。
新婚さんが多いというこのマンションに越してきてまだ3ヶ月。
外で働いてくる俺と、バイトをやりつつ家事も全部やってくれるセイ。
端からは俺たち二人がどういう関係に見えるのかは知らないけれど、俺達は実に仲良く…それこそ新婚夫婦みたいに…暮らしていた。
「じゃ、今度ハネムーン行こうか」
急に思いついて口にする。
口にした途端、それはすごく良いアイディアのように思えた。
セイはパスポートを持ってるし。
「ハネムーン?」
大きなトレイを両手で抱えて持ってきたセイは、怪訝そうな顔をして眉をあげた。
「お前、パスポート持ってるだろう。海外行こう!海外!」
少し楽しくなって…海外なんて久しぶりだ…セイを見上げる。
「あ、パスポートなら捨てちゃった」
オレの目の前に巨大なカツを置きながら、セイは事も無げに言った。
「捨てた!?」
びっくりして持っていたコップを取り落としそうになる。
「そう。はさみでまっぷたつにして」
「ど、どうして」
「もういらないと思って。ヘタに持ってて使いたくなったら困るだろ」
冗談めかしていいながら、セイは笑っておれの向かいに腰を下ろした。
「食おうぜ」
頷いて手を合わせる。
今日の夕飯はトンカツ、みそ汁、ポテトサラダで、トンカツは山ほどせんぎりキャベツが添えられている。
「いただきます」
俺は言うなり、箸に手を伸ばした。
腹ぺこだ。
「はい、あーん」
いきなり目の前にカツを突きつけられて、慌てて口を開く。
パスポートの騒ぎですっかり忘れていたが、新婚ごっこはまだ続行中らしい。
俺はなんだかフクザツな気持ちになりながら、みそだれのかかったカツをもぐもぐ咀嚼した。
「なあ。俺は何をすれば良いの?」
「は?」
びっくり顔でおれを見つめるセイの顔を見返して、口を開く。
「俺もする。新婚ごっこ」
「お前はしなくていい!」
せっかくセイの遊びに乗ってやろうと思ったのに、セイは何故か慌てたように首を振った。
「でも、ごっこ遊びって一人でするもんじゃないだろ」
言いながら、カツを箸の先に摘み、セイの口元へ持っていく。
どこか不満げな顔をして俺を見るセイに、俺はにっこり笑って言ってやった。
「ほら、あーん。口、開けろって」
セイがものすごくフクザツな…どちらかというと不愉快寄りの…表情をして、口を開ける。
「うまいか?」
いつもセイに言われる台詞を言ってみる。
「うまい」
セイは、オレが作ったんだから当たり前だろ、という顔をしつつも素直にこう言った。
「も、良いから自分の食えよ」
次は何を食わせてやろうかと思っていたら、セイが慌てたように言う。
「こんなまだるっこしいことやってくってたら冷めちまう」
ま、それも一理あるな。
「んじゃ、また後でな」
自分の口にカツを入れつつ言う俺に、セイはまたフクザツな顔をした。
飯を食い終わった後、二人で並んで洗い物をする。
俺は普段、洗い物一つしない。 させてもらえないからだ。
セイだって働いてるんだし、料理はともかく、他のこまごまとした家事は、二人でやれば良いと思うのに、セイは全部自分でやらないと気が済まない、と言い張ってやらせてくれない。
だけど今日は、新婚ごっこなんだから、とセイを納得させて、セイの洗った食器を拭いた。
二人で並んでする食器洗いは結構楽しくて悪くない。
台所が越してきた時同然にぴっかぴかにリセットされると、セイはようやくキッチンの明かりを消した。
「次は何する?」
セイの顔を覗き込み、少しわくわくしながら聞く。
「楽しいか?」
「せっかくの新婚ごっこだろ。楽しもうぜ」
俺が言うと、セイは一瞬呆れたように俺を見て、それからにやりと笑みを漏らした。
「じゃ、新婚らしくセックスしようか」
耳許に甘く囁かれて、背筋がぞわりとする。
「せっかく新婚アイテムとして、エプロン買ったんだし、裸エプロンでもする?エプロンプレイ」
エプロンプレイ!?
びっくりして、「そんなものがあるのか?」と聞き返すと、セイはあるわけないだろう、と大笑いした。
「や、あんのかもしんないけど、オレは知らないしやったことない」 コスプレならさんざんしたけど、そういや裸エプロンはなかったなあ、とセイが笑って言う。
「でも、せっかくだからやってみる?」
セイは実に色っぽく笑うと、俺から離れて、エプロンを着たまま実に器用に下に着ている服を脱ぎ始めた。
…見たこと無いけど、ストリップってこんななんだろうか。
俺をじっと見つめたまま、セイが優雅とも言える手つきで服を脱いでいく。
薄く透ける生地の向こうに浮かぶ、細いセイのシルエット。
薄いブルーのエプロン一枚になったセイは、俺の前でくるりと一回転してみせた。
裾のフリルが空気を含んでふわりと舞、形の良い尻の上で、たっぷりとしたリボンが揺れる。
俺は黙ったまま、がばりとセイを腕に抱え上げると、寝室のドアを蹴破るようにして開けた。
セイをベッドに放り投げ、すかさず覆い被さって、噛みつくように口付ける。
「新婚さんはこんなにガツガツしないもんだぜ」
すっかり目を潤ませているくせに、減らず口をたたくセイの唇をもう一度塞ぐ。
「ごっこ遊びはもう終わりだ」
俺の言葉に、セイはどこか安心したように、俺の首に腕を回した。
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