どっしりと重いカーテンの隙間から差し込む西日に、椅子に座った流の影が、床に長く伸びていた。
オレンジっぽい明るさに満ちた静かな音楽室に、楽譜をめくる音だけが時折響く。
ふと、流の視線が上げられた。
焦茶色の瞳が、じっとドアを凝視する。
軋んだ音を立て、重い防音扉の取っ手が動き、それと同時に流は椅子から立ち上がった。
開いたドアの隙間から、そっと中を窺うように稔が顔を出す。
「せんぱい」
自分の顔を見つけるなり、ふわりと顔をほころばせる稔を、流は腕を広げて迎えた。
「待ちましたか?」
稔の小さな身体は、すっぽりと流の腕の中に収まる。
「僕も、さっき来たところだよ」
流は、ぎゅっと稔を抱きしめると、つややかな髪に鼻先を埋めた。
淡いシャンプーの香りにまじって、稔の匂いがする。
「いい匂い」
腕の中の稔が、ぽつりと云って、流を見上げた。
丁度、自分が思っていた事を口に出されて、内心驚く。
「せんぱいにくっつくと、せんぱいの匂いがする」
屈託無く笑って言う稔が可愛くて、流はちゅっと稔の額に口づけを落とした。


二人で音楽室を出て、静かな廊下を黙って歩く。
ほんの少しだけ距離を置いて…ただの先輩後輩のフリをして。
休日の夕方ということもあって、歩いている間中、ただの一人ともすれ違わなかった。
”弦楽部”の札の掛かった木目調のドアを、そっと開ける。
中には誰も居なかった。
稔を中へと促し、自分も続いて入る。
雑然とした秩序に満ちたこの部室が、流は気に入っていた。
散らばった楽譜の放つ、インクと紙の匂い。
そこら中に転がっている艶やかな松ヤニ。
薄汚れた楽器拭き。
埃をかぶった賞状や盾。
これらに囲まれていると、心が落ち着いてリラックスできる。
流は、ドアにしっかりとかぎを掛けると、小さく息をついて、稔の顔を見つめた。
「これで安心」
冗談めかしてウインクすると、稔がにっこりと笑う。
流は、稔を抱きしめると、そのまま押し倒すように、おんぼろなソファへ倒れ込んだ。
どさりと腰を下ろした途端、細かな埃が舞う。
二人は同時に咳き込むと、顔を見合わせて小さく笑った。


「んぅ…」
小さく呻いて、稔がしがみついてくる。
流は、持てあましそうな熱を、なんとか理性で押さえつけて、緊張して震える背中を優しく撫でた。
指先に感じる背骨の凹凸。
抱きしめると、その骨格の頼りなさに、ぎくりとする。
小さな頃から身体が弱かったという稔は、今でも小柄でけして丈夫な方ではない。
以前は、抱きしめるのさえおそるおそるだった。
感情のまま、力任せに抱きしめたら壊れてしまいそうで、流はいつも、手のひらで小鳥を暖めるように、優しく優しく稔を抱いた。
そっと抱きしめて、掠めるようなキスをして、手のひらで髪を撫でて。
長い間続いた、ぬるま湯のようなこの関係の均衡を破ったのは、流の方だった。
思い切りきつく胸の中に抱きしめて、思い切り深く唇を奪い、そして初めて身体を繋げた。
無我夢中で一線を越えたあとに感じたのは、途方もない罪悪感。
稔は、幸せだと云った。
大好きなせんぱいと、やっと一つになれて嬉しい、と。
それなのに、流はどうしても後ろめたい気持ちになった。
稔を汚してしまったような気がして。
こんな風に思うのは、稔に対しても、自分に対しても失礼だと、自分を諫めてみたものの、今でも相変わらず、稔を抱くたびに、この思いは心をよぎる。
「せんぱい?」
流の声に我に返る。
「どうか、しましたか?」
心配そうな顔に、流は慌てて笑顔を作った。
「ごめん。ちょっと、昔の事、思い出してた」
ようやく馴染んできた稔の内部に、ゆっくりと身体を動かす。
「昔って?」
流の肩に両手で掴まり、稔が顔を覗き込む。
「稔と、初めてした時の事」
流は、正直に言いながら、稔の細い腰を支えた。
あくまで慎重に、稔の感じる場所を狙って突き上げる。
「あ、ぃや…っ」
途端に、稔の身体が熱を帯び、流の手の中で腰が揺れた。
しがみついてくる稔の身体を抱き留めて、とっくに濡れそぼってとろとろと蜜を零しているモノをそっと手に包み込む。
もどかしげに身体をくねらせ、甘い声で喘ぐ稔に、流は手の動きを早めて射精を促した。
「ぁあっ!」
悲鳴のような声と共に、稔の身体が跳ね上がり、流の手がなま暖かく濡れる。
流は、ぐったりとした稔の身体から、慎重にまだ硬度を保ったままの自身を引き抜くと、ソファへそっと稔を下ろした。
「せんぱい…」
荒い息をつきながら、稔がじっと流を見上げる。
流には、稔の云いたい事が、痛いほど分かった。
「…手を、貸して」
汗ばんだ小さな手を取って、張り詰めた自身に触れさせる。
稔は、熱くぬめったソレを、そっと手の中に握り込んだ。
普段、ヴァイオリンを扱う時とは較べものにならないくらいたどたどしく動く手に、それでも煽られて溜息をつく。
流は、稔の手に手を重ねて、きつめに自身を扱き上げた。
手を動かしているだけの、稔の呼吸が不安定に乱れる。
流は、稔に口づけると、そっと歯列を割り、舌に舌を絡ませた。
濡れた音が、上と下から同時に聞こえて、たまらない羞恥と共に、気持ちが高ぶってくる。
稔の舌をきつく吸い上げながら、流はこみあげてくる熱いモノを躊躇なく吐き出した。
そっと唇を離し、至近距離で見つめ合う。
「好きです」
熱に潤んだ瞳で、稔が小さく囁いた。
熱い吐息に、背筋が震える。
流は、それに答える変わりに、きつく稔を抱きしめた。


「帰りたくない」
「ダメだよ。ほら、電話して」
流は、稔に電話を押しつけると、手早く部室を片づけた。
遅くなってすみません。今から帰ります。はい。はい。大丈夫です。
稔が、母親と話しているのを背後に聞きながら、相変わらずだな、と思う。
小さい頃に、父親を亡くした稔は、身体が弱かったこともあって、母親の溺愛の中で育った。
溺愛と云っても、甘やかすだけでなく、父親のように立派な人になって欲しいと(稔の父親は高名な音楽家だったらしい)いう願いから、勉強も習い事も厳しく管理され、稔にはそれが長い事苦痛だったらしい。
「せんぱいと出会って、僕は自分を見つけられた。せんぱいに会えて、本当に良かった。せんぱいと出会えなければ、僕は潰れていたかもしれない」
稔は、いつかこう云った。
拒絶することも背くこともできず、だからといって、母親の云うなりになるのにも耐えられなくて、もう限界だと稔が思い詰めていた時、二人は出会った。
「終わった?」
振り向くと、稔が溜息をつきながら携帯の電源を切っていた。
「帰りたくない」
呟いて、ソファに座ったままの稔に手を差し伸べる。
稔は、その手をしっかり握ると、のろのろと立ち上がった。
どんなに帰りたくなくても、帰らなきゃいけないことは分かっている。
「帰ろう」
流はそっと、稔の肩を抱き、部室を後にした。
帰り道、薄暗い歩道を少し離れて歩きながら、二人は無言だった。
外を歩くときは、いつでもこうなのだ。
稔を家の前まで送り、最後にそっと手を握る。
また、月曜日に会えるのだと分かっていても、別れはつらかった。
「おやすみ」
そっと手に口付けて、肩を押す。
稔は、振り返らずに、一気に玄関まで駆けていった。
振り返れば、未練が残る。
流は、バタンとドアが鳴る音に、ゆっくりと歩き出した。
帰りたくないのは、稔ばかりじゃない。
流もまた、家には帰りたくなかった。
誰も居ない、真っ暗な部屋に帰る事を思うと、心が沈む。
流は、無理矢理笑顔を作ると、かすかに星の瞬く空を見上げて歩いた。
とびきり陽気なテンポの曲を、頭の中に流して、勢いよく歩く。
あと2年。
心の中で呟いて、流は夜道を駆けだした。